万引してた時のなか子の方が、よつぽど自分の女房らしかつたと思へた。いまは言葉があらたまつたゞけでも、一里や二里の距離は出来たわいと、嘉吉は、なか子の足をゆすぶると、「おい、おい」と小さい声で呼んだ。
「厭よ、何さッ!」なか子は、まるで鷲のやうに荒く身づくろひして吃驚してゐる嘉吉のそばから立ちあがつた。
「帰へるの?」
「えゝこゝにかうしてゐたつて仕方がないぢやないの!」
「‥‥‥‥」
「ねえ、どうすればいゝのさア、――あなた、インバネスどうかしたの?」
「売つちやつた!」
「さう、ま、温くなつたからいゝけど、まるで裸にならない前に、その夜店でも何でもいゝわ、とつゝきなさいよねえ」
「余計なお世話だ!」
「まア! 怒つたの?」
「仕方がないぢやないか、君のやうに浮の空ぢやないよ、あれかこれか、頭が痛くなる程考へてるンだ! 只、別れてしまへば、君はそれで楽々出来るだらうさ、えゝ? 女にやすたり[#「すたり」に傍点]はないからね。――夫婦つてものは、そんなものかねえ、悪くなつたら、わかれてしまつてはいさよならなんて‥‥」
 嘉吉は、自分で自分の言葉に沈没して行くのであつた。
「まア、また、そんなこと云つて、厭ねヱ‥‥ちやんと、あんなに気持ちよく話しあつて、当分どうにかなるまでつて云つてあるぢやありませんか、――あなただつて、私のやうなものより、いゝ奥さま貰つて、赤ちやんでも出来たら幸せぢやないのウ‥‥」
 嘉吉は起きあがるなり、なか子の胸倉を突いて引き倒ふした。展いた窓から、広告球《アドバルン》がくるくる舞つてなか子の眼へ写つて来る。
 平手打ちを食つて、頬が焼けつくやうであつたが、なか子は泣かなかつた。眼をつぶつて森としてゐた。嘉吉はなか子の上に馬乗りになつてせいせい云つてゐたが、胸を締めてゐた両の手を休めると、お互ひに森となつて、よくお化けだお化けだと云つてゐたことを二人とも不図思ひ出してゐたのだ。
 嘉吉の心の中には溢ふれるやうな暴力的なものもあつたが、最早、分別がつきすぎてゐる。「どうした? 御免よ!」さう云つてなか子の首を抱いて優さしく起こしてやつた。
「男も、こんなになつたらお終ひさ」
「‥‥‥‥」
「帯を締めなほして、早く帰へつた方がいゝぜ」
 嘉吉は窓の手欄に首を垂れて、もしやもしやした頭髪の中へ両手を入れて、狂人のやうに雲埃を払つた。――なか子は、横にな
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