階からひとめに波浮の港が見えます。商人町らしく、活氣のある町の風景で、中食に食べた野菜でも魚でも舌においしくて、遊山をする氣分のひとには樂しいところでせう。こんないゝ港に、東京からの便利な船が、這入らないのが不思議な位、美しい風景のところです。――夏になると便利な船が這入つて來るさうですが、灣の中には、昔風な黒船みたいな漁船や、近島通ひの和船がもやつてゐて、まるで小鳥が兩袖でかこまれてゐるやうにも見えました。岬の丘の上には肺病か何かの療養所があると云ふ事でした。大島へ出て、波浮に來たことは大變いゝ思ひ出ものです。
 風呂から上つて、地酒を少し飮みました。何としても一人旅で話し相手もない故、此のやうなゼイタクも見逃し給へです。
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眼とぢたり
瞼ひらけば火となりて
涙吾れをば燒く憶ひなり
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 食事の後、座蒲團を枕にごろりと寢ころぶと、何時のまにかうたゝねしてしまつて、偶と眼が覺めた時、こんな歌が出來ました。海邊の風が心に沁みたのか、何でもないのに涙が溢ふれて、死ぬのだつたら、あのやうな煙の中よりこんな港の美しいところがいゝなと、疲れてゐたのでせう、中々|現《うつつ》と夢のさかひがハッキリとしないで困つてしまひました。
 氣が弱くなつてゐる時に歌と云ふものは出來るでせうか……三時頃、また渡し船に乘つて、元村へ歸へるのですが、もう間伏まで乘合で歸へつた時は夕暮れ近かくで、雨さへ降つて來ました。二里の砂道を歩くのが困難なので宿場に待ち合はせてゐた馬に乘る事にしました。丁度、關西の人だと云ふお母さんを連れた若い男のひとが道連れになつて、三匹の馬は、ポクポク、波の飛ぶ汀を歩いて行くのですが、急に高い馬の背に乘つたので、私は子供のやうに嬉しくなつてしまひました。馬と云ふものにも始めて乘つてみました。
 海も美しいながら、山手の若葉は、佛蘭西の田舍で見た風景にも似てゐます。あゝあんな素直な仕事がしたい、あんな素直な女の心になりたいなんぞ、馬の背中の上からゼイタクな眺望をしながら、アワイ茶屋を越したのが、もう暮れ方の六時頃ででもありましたでせう。

    四信

 馬の賃金は二里半ばかりで壹圓五拾錢でした。天氣がよかつたら、實に歩くにいゝ道です。
 再び大島へ來るやうな事があつたならば、元村へ早朝着くのでせうから、歩いて岡田村に行き二三泊したい心組です。だが、一日か二日の旅だつたら、無理にでも、着いたらすぐ御神火を越して波浮へ出て泊りたいと思ふ位でした。
 疲れてヘトヘトになつて宿についた時の人情と云ふものは、中々身に應へるものですが去りぎはも亦、中々忘れがたいものです。
 海氣館では八疊の部屋だつたのですが、二晩めには隣室の六疊にうつされて、今まで居た部屋には三人連れの新らしいお客樣で、中々やゝこしいやりくり[#「やりくり」に傍点]です。
 此新らしい隣室のお客樣も、襖一重で、子供連れなせいか、すぐ子供達と仲よくなつてしまつて、夜更けまで、女の子たちと話に花が咲きました。トランクに五六册も詰めて來た本なぞも、一度も展いて見る事なく、只下着を着かへるだけで、亦々無駄な荷物になりさうです。
 早朝五時には、下田へ行く東京灣汽船が出るので、次手に下田港へ行つてみるのもいゝだらうと、宿には宵の口に勘定を濟ませておきました。鑵へ這入つた椿油の小さいのを七ツ買つて來る。油屋のおしゆんさんと云ふのが美しい娘だから見てゐらつしやいと云はれたが、めんどくさくて船着き場の店で用をたしてしまひました。

 早朝三時半頃には女中が下田へ行く客を起こしに來ます。雨戸を開けると、硝子玉のはいつた櫛のやうな汽船が沖に止つてゐて、汽笛を鳴らしてゐました、まだ暗いので、船の電氣がキラキラ波に光つて、まるでお月樣が落ちてゐるやうだと、隣室の子供達が云つてゐます。朝、牛乳だけと頼んでおいたのに、牛乳も忘れられて、兎に角波止場へ出ました。東京から來た客を、ハシケで一々運んでから、下田行きの客が乘るのですが、下田行きの客も仲々相當な行列をつくつてゐました。迎へと送りを兼ねて、宿々の客引きが提灯をさげてズラリと波止場へ並んでゐるのですが、會話が面白い。
「××屋で厶います。オヤ素通りか」
「東京の客人は、宵越しの辨當を持つて山へ登るんだから、ガツチリしてゐるよ」
 あんなザツパクな人情では、むしろ宵越しの辨當でも持つて御神火を越した方が、よつぽどケンメイだと思ひます。島へ來て、三圓も四圓も出して湯豆腐を食べさせられるに至つてはあきれてしまうより仕方がない。――かうしてふつと憶ひ出してみると、我々にはやつぱり岡田村が素朴でよかつた。村は竹が澤山出來るのか、竹屋さんがかなり澤山ありました。石の段々の途中にコンクリートの雨水を貯めるところがあつて
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