、そんなのも、ひどくナポリに似てゐる。ヴヱスビオの山の煙のやうに雄大でもないが、貧しいながらも、此岡田村から見る御神火は私の小ナポリです。

 これから下田です。
 船は、宿屋よりも居心地がよくて、門司と下關との連絡船によく似てゐます。大島の元村から二時間で下田の港です。晴天でしたので、下田の町をポツポツ歩きましたが、軒が底く、白い土塀の多い古風なところです。
 お吉が奉公してゐたと云ふ家も見ましたが、細い格子のはまつた、二階建てで倉なぞもありました。いまは空家なのか、人が住んでゐる樣子も見えません。港から、岬の裏がはの大浦の方に歩いてみました。よどむだやうな小さな河があつて、その河添ひには、簪のやうにきやしやな櫻の木が植つてもう花が散りかけてゐました。その河に添つて、なまめかしい格子の家が並んでゐて、夜になつたら、美しい女のひとがチラホラするのでせう、まことに情緒のある町です。
 大浦の海岸では、保養館と云ふ宿で休みました。伊勢海老と、あはびが中食に出たのですが、こゝでは自慢なのでせう。有島生馬氏が泊つてゐられたと云つて上さんが、宿の主の肖像なんぞを出して見せてくれました。――子供達と一緒にモータアボートに乘せて貰つて、下田の沖を走つたのですが、春の逝きかけた淺緑の山の手前を、波を蹴つて飛んで行くのは實に愉快です。吉田松陰と澁木松太郎が、黒船に乘る機會を長い間うかゞつてゐたと云ふ岬の岩穴も海の上から見ました。偶と、
「泣かんか愚人の如く、笑はんか惡漢の如し」と云つたと云ふ松陰の言葉をおもひ出します。
 海の上から見る山は美しい。中でも、女の寢たやうな寢姿山は、下田の町と妙にしつくりしてゐて、慰さめられる風景でした。ひどく海に飽いてしまつたのか、こゝでは休息だけにして、下田から東京までの切符を買つてしまひました。修善寺まで連絡の乘合自動車ですが、大變乘り心地のいゝものです。
 自動車はまるで、馬車屋さんのやうに、古風な喇叭をつけてゐて、大きな體で下田の町を拔けて行きます。
 寺の入口に地藏樣が並んやゐたり、生の椎茸が河ツぷちに干してあつたり、金色に光つた笹藪なぞが多く、下田の町はづれは、汽車が通じてゐないだけに、温く優さしいところで、旅人らしいくつろぎも、こんなところでこそ休めたいなど考へられます。
 下田から、修善寺まで三時間もあるのですが、此途中の風景は山峽の道だけに實に素晴らしく隨分いまゝでに色々な風景も見ましたけれど、此樣に美しい山峽をいまだかつて知りません。
 下田の町を出て、湯ヶ野を越すあたりから、山の屋根が濶達になつて、山肌一面山櫻の谷があつたり、瀧を眼近く眺めたりしました。自動車道は、割合廣いので、乘物にも乘れないなぐれ[#「なぐれ」に傍点]た旅びとなぞが、トンネルの入口なぞから、ひよいと出て來たりして愕かせる時があります。
 伊豆の此旅は、同じ伊豆の中でありながら、大島の青葉とくらべて、瞼に緑が沁みると沁みないだけの違ひのやうです。湯ヶ野から湯ヶ島へかけての谷間の樹のしたみちは、顏も手も染まりさうに薄い緑で、笹藪のこんもりしたのなぞは、全く青春を包んだ喪の小屋のやうで、あの中を覗いたら、火花のやうなかげろふ[#「かげろふ」に傍点]が散りさうです。私は、此樣に小説的な風景を見た事がありません。
 栂や栗、柳、松、櫻、杏、桃、梅、椎の木や楡《にれ》の木、そんなのが何でもあるのでせうが、山を越えても越えても美しい樹が續いてゐます。

    五信

 まるで、何かを追ひ求めてゐるやうに、東京にも歸へらず、途中の湯ヶ島で乘合自動車を降りてしまひました。此青葉の風景に醉つてしまつたのでせう。――湯ヶ島は谷底に家があつて、カジカでもゐさうな落合川が、谷の峽《あひだ》を白く流れてゐます。
 落合樓と云ふのに泊りました。こゝでは始めて灯の下に本を出して讀みたい氣持ちになりました。――温泉が豐富で人氣のない夜更けの風呂場に伸々と體を沈めてゐると、生きてゐる愉しさが、まるで風のやうに吹きあがつて來ます。あんなボコボコ石の煙の中へは、どんな考へで死に行くひとが多いのか、今日の新聞を見てゐると、三原山に飛びこんだ青年の事が出てゐますが、全く不思議な事だ。せめて死ぬときだけでも風景の美しいところに身を置きたいものです。
 溪流の音が、しみじみ山里へ來てゐる感じです。夜更けて珊瑚集を一册讀了しました。詩集の讀めるやうな風景と云ふものは、中々に得難く、眠るのがをしいので、枕元にヱハガキなぞを並べて子供のやうに愉しむのです。
 私は旅へ出ると、夜は早々に眠れるのですが、此樣に眠るのがをしいと思へるのは、あんまり靜かで落ちついてゐるからでせう。
 旅果てと云つた氣持ちです。もうこれでおしまひと云つた感じで、夜明けも早々に起きて、温泉に這入りに
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