大島行
林芙美子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)咋夜《ゆうべ》から

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丁度|徒爾《たいくつ》で

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「すりばち」に傍点]
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    一信

 思ひたつた旅ながら船出した咋夜《ゆうべ》から今朝にかけて、風雨激しく、まぢかく大島の火の山が見えてゐながら上陸が仲々困難でした。本當は、夜明けの五時頃にはもう上陸が出來るはずなのに、十時頃までも風力の激しい甲板の上に立つて、只ぢつと島裾を噛んで行く、白い波煙を見てゐるより仕方もありませんでした。
 遠くから見るとまるで洗つたすりばち[#「すりばち」に傍点]を伏せて、横つちよに葱でも植ゑてあるやうな、そんなひどく味氣ない島です。――上陸出來たのが晝近かくで、雨はあがつてゐましたが、風足が速く島へあがるなり宿へ着いてしまひました。
 大島と云へば、椿だの、娘《アンコ》だの、牛だのが連想されて來る程、何となく淡い美しさを心に描いてゐたのですが、來て見ればあとかたなしで、港の元村《もとむら》は、さう大した風景でもありません。
 菊丸の船の中で御一緒になつた、東京灣汽船の林專務の話では、此島をやがては家族連れの遊山地にしたい心組だと云ふ事でありましたが、いゝ意味での遊山地にするには、仲々前途遼遠な事でせう。
 大島と云へば、此頃はすつかり自殺者で有名になつてしまつたのですが、全く埒もない事です。「元村に着いたら煙草一ツも買はないで、波浮《はぶ》へ越してゐらつしやい」と船の中の旅びとに聞いたのですが、かう風が強くては、お山を越して波浮へ出る勇氣もなく、元村で一日休息する事にしました。
 宿は三原館と云ふのですが、通された部屋が行燈部屋みたいで、眠つてゐると猫でも甞めに來さうな陰氣な部屋です。で、仕方がないので、二階の友人の部屋でお晝飯を共にしました。日歸へりのかういふところは、一人旅よりも、四人も五人もの連れで一部屋を占領してくれるのがいいらしく、そはそはして落ちつけないところです。
 晝過ぎ、二階の二人の男の方達と、お山へ登る仕度を始めたのですが、空は曇つたり晴れたりです。
 山路へさしかゝると、さすがに南の島らしく、椿の花盛りですし、山櫻が新らしい綿のやうに咲いてゐました。野生の椿と云
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