に箱を重ねてラッパを吹いて通る。
*
「おいくら位なんですの」と訊くと、五拾円だと云った。敷金《しききん》は四つ、なかなかいい値段だなと思いながら、押入れの鶴の絵に佗《わび》しくなったり、古新聞の散らかっている廊下に出て、この部屋へ寝床を敷いて寝る夜のことを考えるとあじきなかった。庭はとてもせまい。さるすべりと八《や》ツ手《で》と、つげ[#「つげ」に傍点]の木が四、五本|植《うわ》って、離れの塀ぎわには竜《りゅう》のひげが植えてあった。「一度相談して参りますから」と云うと、差配は、「さようで御座《ござ》いますか」と来た時と少しも変らない態度であっちこっち雨戸を閉め始めた。私も手伝って離れの戸を閉めて靴をはいたが、差配のお爺さんはなかなか出て来ない。暗いなかに、誰か人がいて、お爺さんをどうにかしたのではないかと、裏口へ曲ったが、もう差配の下駄はそこにはなかった。私はもう一度差配の小さい玄関に立って、お爺さんは帰りましたかと聞いてみた。共同水道のような処で水を汲んでいたお婆《ばあ》さんが、「はい帰って参りました」と返事をしてくれたので、私は吻《ほ》っとして路地を抜けた。雨あがりの寒い湿った日だから、あの家もあんなに陰気だったのだろうけれども、あんな差配だったら借りてもいいなと思った。
随分歩いた。足の先きがずきずきするし、黄昏《たそがれ》でだいぶ腹がすいたので、音楽学校のそばをぽくぽく急ぎ足に歩くと、塀の中の校舎に灯火《あかり》がはいって、どの窓からも練習曲が流れて来て、十二、三の子供たちの頭が沢山見える。
私は、角店になった大きな蕎麦《そば》屋へ這入った。蕎麦屋の中は黄昏でまだ灯火を入れていなかった。「いらっしゃアいッ」と大きな声でジャケツを着込んだ若い衆が迎えてくれたが、貸家や職を探して蕎麦屋に立寄る風景は、私の生活にたびたびあったように思えて、私は、自分の胸の中に、愕《おどろ》きとも淋しさとも苦笑ともつかないものを感じた。鍋焼《なべやき》を一つ頼んだ。熱い土鍋を両手ではさんで、かまぼこだの、ほうれん草だの、椎茸《しいたけ》だのを一つ一つ愉《たの》しみに喰べた。全くの孤独で、私は自分で自分に腹を立てたりしたが、がらがらと戸があいて俥曳《くるまひ》きが一人はいって来ると、私と背中合せにもり[#「もり」に傍点]を一つあつらえて、美味《うま》そうに大きな音をたてて蕎麦をすすり始めた。それが、説明もつかないほど私にはすがすがしかった。私は鍋焼を食べ終ると、金を払いながら、「この前を通っているバスはどこへ行ってますか」と尋ねた。「玉《たま》の井《い》まで通ってます」と、若い衆が灯火をつけながら教えてくれた。「浅草の方へ行ってますか?」ともう一度尋ねると雷門《かみなりもん》の前で止まると云うことであった。私は「御馳走様《ごちそうさま》」と云って戸外へ出て、明るいうちにと慾《よく》ばって、また、その辺をぐるぐると歩いてみた。宇野浩二《うのこうじ》さんの家の前へ出る。宇野浩二さんとは此様なお住居《すまい》にいられるのかと、私は少時立って眺めた。どうした事か表札がさかさまになっている。二階の窓にはすだれ[#「すだれ」に傍点]がさがっていた。塀の中により添ったような造りで、大きく繁った八ツ手があった。隣りは何をする家なのか、ビール箱のような木箱が、宇野さんの石塀の方まではみ出て、自転車が二台路上へ置いてあった。
宇野さんの通りをT字型につきあたった処に蔦《つた》の這った碁会所《ごかいじょ》のような面白い家があって、貸家札がさげてあるのが眼にはいった。私はもう暗くなりかけたのに、「貸家がありますそうですが、広さはどの位なのでしょう」と尋ねると、夕飯時の忙がしさで、そこのお神さんはあんまりいい返事はしてくれなかった。貸家は小さい家らしかった。
「そうね、六畳に四畳半に……」と話して貰っているうちに、お互いに貸す意志も借りる意志もないのに、家の説明をしたり聞いたりすることは妙なことだった。私はお神さんの話を呆《ぼ》んやり聞いているのだ。
*
そこを出ると、すっかり暗くなったので、浅草へ出てみることにした。浅草へ出るとさすがに晴々《はればれ》して池《いけ》の端《はた》の石道をぽくぽく歩いてみた。関東だきと云うのか、章魚《たこ》の足のおでんを売る店が軒並みに出ている。花屋敷をまわって、観音堂《かんのんどう》に出て、扉《とびら》の閉ってしまった堂へ上って拝んでみた。私の横にはゲートルをはいた請負師《うけおいし》風の男が少時おがんでいた。観音様は夜通しあいているのかと思ったら、六時頃には大戸《おおど》が降りてしまうのであった。仲店までには色々な夜店が出ている。海苔《のり》ようかんを売っている若い男は国定忠治《くにさだちゅ
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