貸家探し
林芙美子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)山崎朝雲《やまざきちょううん》と

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)荒川区|日暮里《にっぽり》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「やみくも」に傍点]
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 山崎朝雲《やまざきちょううん》と云うひとの家の横から動坂《どうざか》の方へぽつぽつ降りると、福沢一郎《ふくざわいちろう》氏のアトリエの屋根が見える。火事でもあったのか、とある小さな路地の中に、一軒ほど丸焼けのまま柱だけつっ立っている家のそばに、サルビヤが真盛りの貸家が眼についた。玄関が二つあるけれども、がたがたに古い家で、雨戸が水を吸ったように湿っていた。ビール瓶で花園をかこってあるが、花園の中には塵芥が山のように積んであり、看護婦会の白い看板が捨ててあったりする。こんな家に住むのは厭《いや》だなと思い、路地から路地を抜けて動坂の電車通りへ出て、電車通りをつっ切り染物屋の路地へ這入《はい》ると、ここはもう荒川区|日暮里《にっぽり》九丁目になっている。荒川区と云うと、何だか遠い処《ところ》のように思えて、散々家を探すのが厭になり、古道具屋だの、炭屋だの、魚屋だののような日常品を売る店の多い通りを、私は長い外套《がいとう》の裾《すそ》をなびかせて支那人のような姿で歩いた。炭屋の店先きでは、フラスコに赤い水を入れて煉炭《れんたん》で湯をわかして近所のお神《かみ》さんの眼を惹《ひ》いている。私も少時はそれに見とれていた。支那そば屋、寿司屋、たい焼屋、色々な匂いがする。レコードが鳴っている。私は田端《たばた》の自笑軒の前を通って、石材屋の前のおどけた狸《たぬき》のおきものを眺めたり、お諏訪《すわ》様の横のレンガ坂を当《あて》もなく登ってみたりした。小学生が沢山降りて来る。みんな顔色が悪い。風が冷たいせいかも知れない。みんなあおぐろい顔色をしていた。
 谷中《やなか》の墓地近くになっても貸家はみつかりそうにもなかった。いたずらに歩くばかりで、歩きながら、考えることは情ないことばかりだった。朝倉塾の前へ来ると、建築の物々しいのに私はびっくりしてしまった。屋根の上にブロンズが置いてある。田舎のひとのよろこびそうな建物だなと思った。石材屋と、最中《もなか》屋との間を抜けて谷中の墓地へ這入るとさすがに清々《せいせい》とした。寺と云う寺の庭には山茶花《さざんか》の花がさかりだし、並木の木もいい色に秋色をなしていた。広い通りへ出て川上音次郎《かわかみおとじろう》の銅像の処で少時休んだ。女の子供が二人、私のそばで蜜柑《みかん》を喰べていた。それを見ていると、私の舌の上にも酸っぱい汁がたまりそうであった。川上音次郎の銅像はなかなか若い。見ていて、このひとの芝居は私は一度も知らないのだなと、まるで、自分が子供のように若く思えたりする。銅像の裏には共同便所があるので、色々な人たちが出たり這入ったりしていた。
 谷中葬場の方へ歩く。葬場の前の柳は十一月だと云うのにまだ青々としていた。ちょうど、道一つ越して柳の前になった処に、小さい額縁屋があって、昔からこの店のつくりだけは変らないようだ。私は、石材屋の横を左に曲って桜木町に這入ってみた。門構えのつつましい一軒の貸家が眼にはいった。さるすべりの禿《は》げたような古木《こぼく》が塀の外へはみ出ている。前の川端さんのお家によく似ていた。差配《さはい》を探して、その家を見せて貰ったが、長い間貸家だったせいか、じめじめしていて、家の中は陰気に暗かった。差配は、七十位の小さい白髪《しらが》の爺《じい》さんで、耳が遠いのか、大きな声で「お住まいはどちらです」と訊《き》いた。「落合《おちあい》です」と云うと、「落合」とおうむ返しに応《こた》えて、私のなりふりには少しも注意せずに、部屋の中まで杖にすがって歩いていた。玄関が四畳半、座敷が八畳、女中部屋が三畳、離れが六畳の品のいい階下だったけれども、座敷の床《とこ》の間《ま》の後に二畳の変な部屋があるのが怖かった。二階は八畳で見晴らしが利きますと、差配は急な梯子《はしご》をぼつりぼつりあがって行った。私もついてあがって行ったが、暗くて急な梯子段の中途にかかると、私はふと、佐藤春夫《さとうはるお》氏の化物屋敷と云う小説を連想して体がぞくぞくと震えた。梯子段は途中で曲ってなお二、三段急になっている。上は真黒で、差配のつく杖の音だけが廊下に音している。雨戸の隙間からにぶい光線がやみくも[#「やみくも」に傍点]に部屋の中へ流れていて、眼がさだまってくると、差配の爺さんはがらがらと雨戸を繰《く》ってくれた。廊下へ出ると、路地がすぐ眼の下で牛乳屋も通る。豆腐屋も通る。豆腐屋もこの辺になると、リヤカアの上
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