うじ》の講談本を声高く読んでいたりした。人差指のない男が人参や大根を刻む金物を売っていたり、八十八ヶ所めぐりのスタンプ帳を売っている所なぞ、私は歩きながら子供のように面白かった。風船や絵本を売る子供たちが、夕べの別れに、「おしんちゃんに来るように云っとオくれ、いいかい。おばちゃんによろしくってね」とこんなことを高声で話しあって、公園の夜霧のなかへ子供たちはちりぢりに消えて行っている。仲店では文字焼きの道具を買った。帰って文字焼きをして遊ぼうと思った。伊勢勘で豆人形と猫を買った。雷門へ出ると、ますます帰るのが厭になり、十年振りに私はちんや[#「ちんや」に傍点]へ肉を食べに這入ってみた。何十畳とある広い座敷の真中に在郷軍人と云ったような人たちが輪になって肉をたべていた。私は六十八番と云う大きな木札を貰って、女中に母娘《おやこ》連れの横へ連れられて行った。「しゃも[#「しゃも」に傍点]になさいますか、中肉、それにロースとございますけど」太った銀杏返《いちょうがえ》しの女中はにこにこしてしゃべっている。私はロースを註文してばさばさと飯をたべ始めたが、さっきの鍋焼きで、腹工合《はらぐあい》はいっぱいだった。働いている女中は、みんな日本髪で、ずっこけ[#「ずっこけ」に傍点]風に帯を結び、人生のあらゆるものにびく[#「びく」に傍点]ともしないような風体《ふうてい》に見える。うらやましい気持ちであった。私はロースの煮えたのを頬《ほお》ばりながら、お客の顔や、女中たちの顔を眺めていた。まるで銭湯《せんとう》のような感じで、紅葉の胸飾りをしたお上《のぼ》りさんたちもいる。バスケットを持った田舎出の若夫婦、ピクニック帰り、種々雑多な人たちが小さい食卓を囲んでいる。
私の隣の母娘は、もう勘定だ。この母娘は二人で平常暮らしているのじゃなくて、たまたま逢ったのだろうと思えるほど、二人の言葉や服装に何か違いがあった。娘はクリーム色の金紗《きんしゃ》の羽織を着て、如何《いか》にも女給のようだったし、母親は木綿の羽織に、手拭《てぬぐ》いで襟あてをしていた。
浅草から帰ったのが七時半ごろ、貸家も何もみつからなかったが朝の憂鬱《ゆううつ》をさばさばと払いおとした気持ちであった。私は年寄りの部屋で手焙《てあぶ》りに火をおこして文字焼きの用意をした。忙がしいはずの私がうどん粉をこねたりしているのを家人たちはびっくりして見ていた。文字焼きで、あはあは笑ったりして、早く寝てしまったが、その翌《あく》る日、私の憂鬱は再びかえって来た。豊島薫さんが亡くなったと云う郵便が来たり、厭な手紙ばかりだった。豊島さんへは二、三日前花束を持って行ったが、あの花束は亡くなられた豊島さんの枕元でまだ咲いているだろう。私は風呂をわかして二度も三度も這入った。落ちつかないと、私には風呂にはいりたがるくせがある。「豊島さんへ行ったの何時《いつ》だったかしら?」と年寄りに訊くと、十八日だと教えてくれた。都の上山君が、あやふやな番地を教えてくれたために、半日、阿佐ヶ谷《あさがや》の町を、家にいる小さい書生さんと歩きまわった。家がみつかった時には、へとへとになって、私は上山君にかんかんになって怒っていた。怒っていたから、豊島さんのお家にはよう這入らず、書生さんに花と手紙を持たせて私は戸口に立っていた。だから、生前の豊島さんには長いことお眼にかからず仕舞い。こんなに早くお亡くなりになるとも思わないし、お眼にかかってお見舞いしておけばよかったと悔いでいっぱいだった。
豊島さんも御家族が多いので心残りだったろうと思う。生前の豊島さんには三、四度位しかお逢いした事がない。漫画をとりにいらっした時、加藤悦郎さんと見えた位で、浅いおつきあいだったが誠実のある立派な人であった。読売の河辺さんだったか、豊島さんを非常に讃《ほ》めていた。豊島さんの事を考えると、本当に死んでは困ると思った。長生きして一生懸命な仕事を一つでも残したいものだ。貸家を探すのは新聞広告に出してきめることにした。
底本:「林芙美子随筆集」岩波文庫、岩波書店
2003(平成15)年2月14日第1刷発行
2003(平成15)年3月5日第2刷発行
初出:「都新聞」
1935(昭和10)年11月27日〜30日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:noriko saito
2004年8月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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