た母は、軈て間もなくぷんぷん怒りながら戻つて來て、
「あんな、あはうな娘、もうあきらめた方がよろし、なんぼう、何かて、胸くその惡い……急に一寸した金持の家から縁談があつてなア、くみ子さんの親ごはん達が、どうしてもその方へくみ子さんやらはりたいンやと、――あほらしい、こんな莫迦くさい話がほかにありますかいな……」
 と、無性に大阪の叔父夫婦までを意氣地がないとののしつてゐるのであつた。勿論、周次も内心吃驚せずにはゐられなかつた。
 何時だつたか、くみ子が風邪をひいて東京で二日ばかり寢ついたことがあつた。もう、明日は起きてもいいと醫者に云はれた晩、周次は會社のかへりにコロラドの月なんかのレコードを買つて來て、くみ子に聽かせてやつたりしたことがある。母は夕方から芝の方へ用事に出向いてゐたし、女中も臺所をしてゐてひつそりした夜だつた。二人は何と云ふこともなく自然に手をとりあつてゐた。自然な子供同士のやうなしぐさだつたが、軈て結婚式を持つ二人には、何かしこりのとれたやうな、そんな晴々しいものがお互ひの心にあつた。
 その焙《や》きつくやうな思ひ出のあるくみ子が、八田義太郎と云ふ實業家の家へ急に嫁入つてゆくと云ふことは、周次には何としても信じられない事だつた。しかも不思議なことには、京都の大學では周次と同じ法科で、卒業もいつしよだつた八田義之の兄だと云ふことをきき、妙なつながりを感じずにはゐられない。
 風呂からあがつて、座敷へ戻つて行くと、くみ子も、別な風呂へ案内されたのか、浴衣姿で、鏡臺の前に坐つてゐた。
「暑いのね……」
「むしむしして厭ですね……」
 食卓には食事の用意が出來てゐて、女中が冷えたビールを持つてはいつて來た。周次は心のうちで、女連れで來てゐる自分ををかしがりながら、それでも悠々と床の間へ坐つた。鯉のあらひ、瀧川豆腐、野菜のすまし汁、そんなものが、いかにもよそよそしく食卓に並んでゐる。
「お月樣が出てゐます……」
 女中がビールをつぎながら、ふつと簾《すだれ》ごしに外を覗いてゐる。蟲がぢいぢいと鳴きたててゐる。ビールが終ると、女中は給仕をくみ子に頼んで廊下へ出て行つた。

       ○

「私ね、繼母への義理で八田へ行つたやうなものですわ。一日だつて幸福な日はなかつたし、ああして亡くなるのも、浴びるやうに飮んだお酒のたたりですわ……」
「そんなに飮んだん
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