ぽい家になつたんだなア……」
 周次がカンカン帽を床へ置いて縁の籐椅子へ腰をかけると、くみ子も立つたなりそつと四圍を眺めてゐる。庭には樋がつくつてあるのか、水の滴る音もしてゐる。女中が冷い麥茶を運んで來た。
「まだ、夕飯を食べてゐないんだけど、何かみつくろつて持つて來て下さい。ついでにビールもほしいな……」
 女中が浴衣を擴げながら、二人に着替へて風呂はどうかと訊いてゐる。周次は浴衣に着替へてさつさと風呂にはいりに行つた。風呂は鑛泉なのか藥臭い匂ひがしてゐた。
 何の爲に二人でこんなところへ來たのか、周次は自分でも妙な氣持ちだつたが、どんなに遲くなつても、兎に角、自分だけは歸らうと思ふのだつた。――女の方から勝手に去つておいて、いまさら、また、自分からよりを戻す氣にはどうしてもなれない。周次は自分で自問自答しながら、のびのびと廣い浴槽にひたつて眼をとぢてゐた。
 くみ子の良人の義太郎が、この二月に急性肺炎で亡くなつたことも知つてゐたが、周次は別にくやみ状も出さなかつた。

 周次は初めてくみ子に會つたのは大阪の叔父の家である。商人の娘で、女學校を出たばかりだが、周次の嫁にどうかと云ふことで、周次は母と大阪へ行つたついでに叔父の家でくみ子とみあひをしたのだつた。
 周次が二十四、くみ子が十八の秋だつた。叔父の家の裏の茶席で、周次はくみ子から茶をたててもらつて飮んだ。茶の流儀は何も知らなかつたけれど、周次は美しいくみ子の姿に、掌の寶玉のやうないとしいものを感じて、茶の苦味さ、菓子の美味さも云ひやうのない愉しさだつた。周次はそれから、一ヶ月あまりも大阪の叔父の家にゐたのだ。
 云はば許婚《いひなづけ》のやうな間柄になつた二人は、日がへりで奈良や京都にも遊びに行つたりした。周次が東京へ戻つて來ると、くみ子もすぐ東京へ遊びに來たりして、周次の家へ一週間も寢泊りしてゐたり、周次は勿論、母にも、くみ子のあどけなさは愉しいこのましさだつたのだ。
 年が明けて、二月早々には結婚式をしたらどうかと、周次の方で大阪の叔父へ相談の手紙を出した時、折返して來た叔父の手紙には、藪から棒に、くみ子のことはあきらめてくれるやうにと云ふ文面が書いてあつた。
 周次は何のことだかさつぱり判らなかつたので、周次の母がひとりでわざわざ大阪へ自分から樣子をききに出向いて行つたりもした。――大阪へ出向いて行つ
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