何か深い事情があるらしく、ハンカチをもてあそんでゐるくみ子の指が時々震へてゐる。
「今夜は何處へ泊るんです?」
「別に何處つてあてなんかないんですけど、女學校時代の友達の家へ行かうかしらんと思うてますの……」
 周次は心のうちにざまをみろと云ひたいものがあつたが、それでも、そのざまをみろのうちにも、一筋や二筋のみれんはないでもない。――やがて、周次は、東京驛へくみ子を待たしておいて自分はオフイスへ戻つて行つた。さうして會計のところへ行つて少しばかりの金を借りて、帽子を取つて外へ出たけれど、周次は今だにくみ子に戀々としてゐる自分がをかしくて、歩きながらも妙に意氣地のない氣持ちを感じてゐる。
 アスフアルトは白く乾いて、驛の前の街路樹も何だか暑つくるしさうに森閑としてゐる。周次は會計で借りて來た金の胸算用をしながら、くみ子を何處へ連れて行つたものかと考へてゐた。遠い昔、新聞の遊覽案内をみて、くみ子と二人で多摩川へ遊びに行つたことを彼はふつと思ひ出してゐた。その家は割烹旅館のやうな家構へで、庭さきに汚れた池があり、白い野茨《のいばら》が垣根にいつぱい咲いてゐたりした。
(逢つても、別れてもみれんなのだから、いつそ……)
 周次は一年も逢はないうちに、少しぼつてりと太つてきてゐるくみ子を、何となく憎々しく考へてもゐる。
 驛ではくみ子が、待合室の入口で待ち疲れたやうに立つてゐた。
「やア、どうも遲くなつて……雜用があつたものだから、ごめんなさい」
「あんまり遲いので、私、すつぽかされるのんか思ひましたわ……」
「まさか、貴女ぢやあるまいし……」
「まア、あんなこと……でも、もう五時ですわ」
「何處へ行きますか?」
「何處でもよろしわ……貴方のとこへ行つたら、お母樣お怒りになるでせう」
「そりア怒りますよ。とても怒るですよ」
「さうでせうね。――そんなにお母樣はお怒りになつていらつしやる?」

       ○

 二人が多摩川の旅館へ着いたのは七時頃だつた。すつかり黄昏れてしまつて、どんよりした月が出てゐた。
 座敷へ通ると、近頃改築したのか、縁側も柱も新しく木の香がぷんとただようてゐた。朝鮮簾のそばに朱塗りの大きい食卓があつて、水色麻の座蒲團が二ツ、食卓の兩側へ凉しげにならべてある。床には桔梗の花を描いた軸がさがつてゐて、古銅に赤いグラジオラスが活けてあつた。
「隨分安つ
前へ 次へ
全10ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング