多摩川
林芙美子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)清楚《せいそ》に
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あまり暑いので、津田は洗面所へ顏を洗ひに行つた。洗面所には大きい窓があつたが、今日はどんよりして風ひとつない。むしむしした午後である。
「津田さん、お電話ですよ」
津田が呆んやり窓の外を眺めてゐると、女給仕が津田を呼びに來た。オフイスへ戻つて卓上の電話へ耳をあてると、
「津田さん? 津田さんでいらつしやいますか?」
と、女の優しい聲がしてゐる。
「私、くみ子です……御無沙汰してをります。今日、東京へ出て參りましたの……」
初めは誰かと耳をそばだててゐた津田の瞼に、かつてのくみ子の顏が大きく浮んで來た。
「あのね、いま、私、丸ビルまで來てゐますの、下の竹葉で御飯を食べたとこなんですけど、ねえ、あの、一寸、お會ひ出來ませんでせうか?」
「…………」
「怒つていらつしやる? ごめんなさい、――でも、お會ひして、色々聞いて戴きたいンですの……」
津田は腕時計を眺めた。丁度二時だ。いまごろのんびりと晝飯を食つてゐるくみ子の樣子を考へて、津田は何だか不快な氣持ちだつたが、それでも久しく逢はないくみ子に、何となく自分も逢ひたい氣持ちである。
「珍らしいこともあるもンですね。――ぢやア、まア、一寸うかがひませう……」
受話機を戻して、上着をひつかけると、津田は隣席の櫻井に一寸頼んで、くみ子の待つてゐる地階の竹葉へ降りて行つてみた。
(何年になるかな……あれから、丸二年は經つてゐるな)
津田が竹葉へはいつて行くと、窓ぎはのボツクスにくみ子がにこにこ笑つてゐた。細かな花模樣の青い着物に、白博多の帶が清楚《せいそ》にぱつとまばゆかつた。
「來てなんか下さらないと思ひましたわ……」
津田が腰をおろすと、くみ子が遠慮さうにさう云つた。
「いつたい、何時出て來たんです?」
「さつき、まだ荷物も驛へ預けつぱなしですの、――當分、私、東京にゐようと思つてゐるんですけど……」
「水害はどうでした?」
「ええ、ありがたうございます。とてもひどかつたのですけど、私のところは大丈夫だつたの、貴方の處は如何でした?」
「僕のところは山の手だから大丈夫ですよ」
くみ子はハンドバツクから薄むらさきのハンカチを出して、それを少時《しばら》く擴げたりたたんだりしてゐた。今度の上京に就いては、
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