してゐた。
「どうした?」
「どうもしない……」
「どうもしない? だつて泣いてるぢやないか……」
「どうもしなくつたつて涙の出たくなる時あるわよ……」
○
夕飯は、何時かくみ子と行つた割烹旅館で食べた。汚れた池もこはしてしまつて、縁側の下へきれいな流れが引きこんであり、擴げられた庭には噴水があがつてゐた。階下の凉しい部屋だつた。三人とも浴衣に細帶姿の遠慮のない恰好で食卓についてゐた。
「ツヤは泳げるのかい?」
母が訊いた。
「いいえ……」
ツヤが赧くなつてゐる。男に向つては豹の如く、女に向つては猫の如しのツヤの轉心ぶりに、周次は内心驚き呆れながら、女の種類も色々あるものだと思つた。
女心は羽毛のやうだと云ふけれど、くみ子が結婚まぎはに、八田へ嫁いでいつたのも、このいまのツヤの轉心に、何か一脈通じたものがあるやうに思へた。
「苦しいか」と云へば、無造作に、「うん」と應《こた》へたツヤが、母の前では、顏を赧めてはにかんでゐる。周次にはそれが一種の魅力でもあつた。
「多摩川つて夜がいいんでございませうね。あら螢が……」
縁側へ大きな螢がすつと飛んで來て、簾《すだれ》へとまつてゐる。給仕に出た女中が、山から螢を取りよせて庭へ放してあるのだと教へてくれた。
晴れた美しい夜だつた。
歸りは三人で川邊を歩いてみたが、時々ツヤはそつと周次の腕に凭れて來る。
(どんな男にも、平氣でこんな事をしてゐた女かも知れないな……)
周次は、さう思ひながらも、晝間の、柔い躯を抱いた感觸が忘れられなかつた。
家へは八時頃歸つた。
メロンの包みを抱いて、くみ子が椹《さはら》の垣根のそばにきまり惡さうに立つた待つてゐた。母は初めは不快さうだつたが、それでもお上りなさいと云つてゐる。
黒い明石に黄ろい帶が凉しさうだつた。
座敷へ上ると、くみ子は如何にもなつかしさうに四圍を眺めてゐる。
「ちつとも變りませんのね。昔の通りね」
「僕は部屋の位置を替へるのあまり好かないから……」
「お母さまもお元氣で……」
「東京へ出て來てなさるンですつて? ほんまですかいな?」
「ええ、ほんとですの……でも、近いうちに一寸大阪へ戻りますのよ。――だつて、私が主人のもの全部取つてしまつたなんて、裁判沙汰になつちやつたんですのよ……」
「へえ、そりやまた大變ですねえ……」
「でも、
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