「ええ、私、山國ですから、こんな川なんかなら自信がございます……」
「自信がある、おやおや、ぢやア、海水着を借りてやるから泳いだらいいだらう……」
 後から泳ぎますと云ふので、周次は母とツヤを船へのこして、自分は河上の方へ泳ぎに行つた。向岸は櫻並木で葉櫻には、蝉が燒けつくやうに鳴きたててゐた。
 水は肌に冷く、空の青さが川面に暗く石油を流したやうに寫つてゐる。まるで少年の日にかへつたやうに、周次はときどき耳に唾をつめながら、水の中へぐつともぐつたりした。或る川底では、水流が二つになつてゐたり、ぬめぬめした藻が、晝の陽を寫して、みどりの水面に白い影を寫してゐたりした。むれるやうな草の匂ひがする。――急に身近かに女の笑ひ聲がした。
 周次がざあつと水面へ頭を持ちあげると、赤い海水着を着たツヤが、まるで女學生のやうにハツラツと泳いでゐた。白い美しい肌だつた。腕や脚のふくらみが子供の手足のやうにぶくぶくしてゐる。
「何時來たんだ?」
「いま……」
(いま)と云ふぞんざいな言葉が、周次には可愛かつた。
「うまいんだねえ……」
「だつて、子供の頃、よく泳いだんですもの……」
「ぢやア、もつと河上へ行かう……」
「競爭しませうか?」
「生意氣云つてる……お母さんはどうしてる?」
「晝寢なさいますんですつて、空氣枕を借りて、さしあげときました」
 二人は水流にさからつて、河上へ河上へと泳いで行つた。百舌鳥《もず》のやうなけたたましい鳥が堤の草藪に鳴きたててゐる。蛙も地蟲も鳴いてゐる。――ツヤがぐんと躯を空に向けかへた。疲れたのか、手をやすめたすきに、ぐつと河下へツヤは二三米押し流されてゐる。周次との距離は二三米が四五米になり、何か氣力もなく呆んやり流されてゐるかたちだつた。周次は急いでバツクをしてツヤへ追ひついてゆき、ツヤの躯を岸へ押して行つた。
「どうした?」
「疲れちやつたわ」
「莫迦だなア、無理をするからだよ……」
 周次はぐつたりしてゐるツヤを抱いて、陽が燒けつくやうにあたつてゐる草の上へツヤを抱きあげてやつた。
「疲れたのか?」
「冷いでせう? 水が……」
「うん」
「やつと、何だかほかほかいい氣持ち……」
「唇が紫色してるよ。莫迦な奴だなア、そんなに力まなくつたつて……」
 周次が冷たくなつたツヤの腕をさすつてやると、ツヤはぢつと周次の手を眺めながら大粒な涙をあふれさ
前へ 次へ
全10ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング