はどこへ逃げて行くのか
そして結局は薄情者になり
ボロカス女になり
死ぬまでカフエーだの女中だの女工だの
ボロカス女で
私は働き死にしなければならないのか!
病にひがんだ男は
お前は赤い豚だと云ひます
矢でも鉄砲でも飛んでこい
胸くその悪い男や女の前に
芙美子さんの腸を見せてやりたい。
[#改ページ]
赤いスリツパ
地球の廻転椅子に腰をかけて
ガタンとひとまはりすれば
引きづる赤いスリツパが
かたいつぽ飛んでしまつた。
淋しいなあ……
オーイと呼んでも
誰も飛んだスリツパを取つてはくれぬ
度胸をきめて廻転椅子から飛び降りて
片つ方のスリツパを取りに行かうか
あゝ臆病な私の手は
しつかり廻転椅子にすがりついてゐる。
オーイ誰でもいゝ
思ひ切り私の横面をはりとばしてくれ
そしてはいてゐるも一ツのスリツパも飛ばしてくれ
私はゆつくり眠りたい。
[#改丁]
朱帆は海へ出た
[#改丁]
朱帆は海へ出た
潮鳴りの音を聞いたか!
茫漠と拡つた海の叫喚を聞いたか!
煤けたランプの灯を女房達に託して
島の職工達は磯の小石を蹴散し
夕焼けた浜辺へ集つた。
遠い潮鳴りの音を聞いたか!
何千と群れた人間の声を聞いたか!
こゝは内海の静かな造船港だ
貝の蓋を閉じてしまつたやうな
因の島の細い町並に
油で汚れたヅボンや菜つ葉服の旗がひるがへつて
骨と骨で打ち破る工場の門の崩れる音
その音はワアン ワアン
島いつぱいに吠へてゐた。
ド……ドツ ド……ドツ
青いペンキ塗りの通用門が群れた肩に押されると
敏活なカメレオン達は
職工達の血と油で色どられた清算簿をかゝえて
雪夜の狐のやうにヒヨイヒヨイ
ランチへ飛び乗つて行つてしまふ。
表情の歪んだ固い職工達の顔から
怒の涙がほとばしつて
プチプチ音をたてゝゐるではないか
逃げたランチは
投網のやうに拡がつた○○○の船に横切られてしまふとさても
此小さな島の群れた職工達と逃げたランチの間は
只一筋の白い水煙に消されてしまふ。
歯を噛み額を地にすりつけても
空は――
昨日も今日も変りのない
平凡な雲の流れだ
そこで!
頭のもげそうな狂人になつた職工達は
波に呼びかけ海に吠へ
ドツク[#「ドツク」に傍点]の破船の中に渦をまいて雪崩てゐつた。
潮鳴りの音を聞いたか!
遠い波の叫喚を聞いたか!
旗を振れツ!
うんと空高く旗を振れツ
元気な若者達が
キンキラ光つた肌をさらして
カラヽ カラヽ カラヽ
破れた赤い帆の帆縄を力いつぱい引きしぼると
海水止めの関を喰ひ破つて
朱船は風の唸る海へ出た!
それツ! 旗を振れツ!
○○歌を唄へツ!
朽ちてはゐるが
元気に風をいつぱい孕んだ朱船は
白いしぶき[#「しぶき」に傍点]を蹴つて海へ!
海の只中へ矢のやうに走つて出た。
だが……
オーイ オーイ
寒冷な風の吹く荒神山の上で呼んでゐる
波のやうに元気な叫喚に耳をそばだてよ!
可哀想な女房や子供達が
あんなにも背のびして
空高く空高く呼んでゐるではないか!
遠い潮鳴りの音を聞いたか!
波の怒号するを聞いたか!
…………
山の上の枯木の下に
枯木と一緒に双手を振つてゐる女房子供の目の底には
火の粉のやうにつゝ走つて行く
赤い帆がいつまでも写つてゐたよ。
[#改ページ]
静心
夜が更けて
遠くで鷄が鳴いてゐる
明日はこれでお米を買ひませう
私は蜜柑箱の机の上で
匂ひやかな子供の物語りを書いたのです
もしこれがお金になつたならば
私の空想は夜更けの白々した電気に消へてしまふのです
私は疲れて指を折つて見ました
二日も御飯を食べないので
とても寒くて
ホラ私の胃袋は鐘のやうに
ゴオンゴオンと鳴つてゐます。
火鉢に鍋をのせ
うどんの玉を入れて食べませう
外は風が寒むそうだが
すばらしい月夜です。
この白い糸のやうな湯気を見てゐると
私は赤ん坊のやうに楽しいんです。
童話も書きあがつてしまつたし
うどんもぐつぐつ煮へて来たし……。
一週間も前にさした枯々の水仙が
馬鹿に悲しい心情をそゝるのですが
明日の事を思ふとじつと涙をこらへて
私は白い手を見ました
あゝ昔私に恋文をくれた人もあつたつけ……。
[#改ページ]
燃へろ!
燃へろ!
燃へろ!
それ火だ火の粉だ
憂鬱を燃やせ!
真実の心は火花だ心だ!
馬鹿にするな
馬鹿にするな
貧しくつても
生きるのだ!
大きな樹の上に止つて
私の子供のやうな心は
ねー狂人のやうにこんなに叫びたいのです。
[#改ページ]
火花の鎖
大根畑が白く凍つてゐる朝
米をといでゐる私は
赤い肩掛けがほしくなりました
仄かに音もなく降る雪の中に
赤い肩掛けをして
恋人と旅に出たならば……。
私は顔をあかめて心のふるへをたゝみ
そつと涙ぐむのです。
此朝の米をかしぐ間の私の幻想は
急行列車の中に空想の玩具を積みあげて
火花の鎖のやうに燃へて
走つて行きます。
[#改ページ]
失職して見た夢
燃へるやうに暗い夜
月がトンネルにくゞりこんで
沖では白帆がコトコト滑つてゐた
そこでセツケン工場を止めさせられた私が
ソーダでカルメラのやうに荒れた手を
香水の中にひたして泣いてゐた。
どこまで歩いたか知らないが
とにかく暗に火が見へる
おあつらへ向きに腹がへつて
そこは支那料理店だつた
焼きたての豚肉がいつぱい盛られて
一皿八銭
目の光る支那人のコツクに
私は熱い思ひをした
ぢつとふれあつてゐる腕に
支那人のコツクは蛇を巻きつかせてヘツヘツ……
長い髪を上へかき上げたら
私の可愛い恋人であつた。
手品の蛇が飛んぢやつた!
青い泡が固いセツケンになつてしまつた。
私と恋人は野に転び小指をつなぎ合はせて接吻したが
恋人は此世ではとても食つて行けないからと
私の小さい胸をぶち抜かうとした
赤い火花が固いセツケンになつてしまつた
私は支那料理が食ひたくなつて
海上を一目散に逃げ出した
ズドン一散! 私の貞操は飛んぢやつた。
[#改ページ]
月夜の花
女郎買ひの帰りに
俺は雪の小道を
狐が走つてゐるのを見たよ
彼の人は凍ほつた道を子供のやうに蹴つてゐた。
郊外の町を歩いて
私は彼の人と赤い花を買ひに行つた
幾年にもない心の驚異である
明日は花の静物でも描かうや……
彼の人は月に引つかけるつもりか
マントを風にゆすつてゐる。
雪の小道を狐が走つてゐるのを見た
丁度波のやうに体をくねらせて走つて行つたよ
彼の人の山国の女郎屋の風景を思ひ浮べ乍ら
台所の野菜箱のやうな私を侘しく思つた
しめつた野菜箱の中に白つぽい蒼ざめた花を
咲かせては泣いた私であつたに
ね…… オイ! 沈丁花の花が匂ふよ
暗い邸の中から
仄かな淋しい花の匂ひがする
私は赤い花を月にかざしてみた
貧しい画かきに買はれた花は
プチプチ音をたてゝ月に開いてゐる。
雪も降つてゐない
狐も通つてゐない
月の明るい郊外の田舎道だ。
[#改ページ]
後記
拾年間の作品の中で、好きなのだけ集めてみました。何だか始めてお嫁入りするやうで恥かしいのです。
此詩集の中の詩は、全部発表したものばかりです。皆働らいてゐる時に書きましたので、この詩稿は真黄にやけて、私と転々苦労を共にして来ました。
何も云はないで只万歳と叫びませう。
序を書いて下さいました、石川三四郎氏、辻潤氏は、私の最も尊敬する方でございます。
詩壇の誰もに私は相手にされなかつたのに、かくまで親切なる序文を戴いた事は、私の拾年あまりの詩の苦行も、無駄ではなかつたと思つております。
私は誰よりも私を愛して下さつた、私の多くの女友達に、此せいゐつぱいの詩集をおくり日頃の友情に報ひたいと思ひます。
[#地から1字上げ]――昭和四年・五月・林芙美子――
底本:「蒼馬を見たり」日本図書センター
2002(平成14)年11月25日初版第1刷発行
底本の親本:「蒼馬を見たり」南宋書院
1929(昭和4)年6月15日発行
※別ファイルに切り分けた石川三四郎と辻潤による「序」を、目次から削除しました。
入力:鈴木厚司
校正:noriko saito
2008年10月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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