に大きく あんなに大きく

あゝやつぱり淋しい一人旅だ。
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 善魔と悪魔

まあ兎に角貴方との邂逅を祝しませう
―淋しい人生ぢやありませんか
全く生きてゐる事が

イリウジヨンではないかと思ふ事さへありますよ
或ひはそうかも知れないけれど
此頃つくづく性慾から離れた
心臓が機関車になるやうな
恋がしてみたいと思ひます。

性慾アナーキズム
貞操共産主義も鼻について来ましたからね
やつぱり私の心臓の中にも
善魔がゐるんですね。

―驚きましたね
悪魔が私を裸踊りさせるやうに
善魔は私をおだてあげるのです。

まつて下さい!
今に人間生死薬を発明するつもりです
全くいつも思ふ事ですが
広い海の上をひとつぱしり
歩ける機械が欲しいですね

―まあゆつくり話しませう
まだ生きてゐるんでせう……
貴方も私もまだ二三十年あるんです。

小さな地球の上ではからずも
貴方と邂逅したことは
因果を説かなくても当然の事ですよ

人間万事タナカラボタモチ主義
思切れば数へ切れない程の主義がありますね
それも皆善魔と悪魔の戦ひです。

結局は大口いつぱいの空です
どうです十本入り六銭の
蒼ざめたバツトでも吸ひません
そして愉快に
笑つて今日の邂逅を祝しませう。
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 灰の中の小人

今日も日暮れだ
仄白い薄暗の中で
火鉢の灰を見つめてゐたら
凸凹の灰の上を
小人がケシ粒のやうな荷物をもつて
ヒヨコヒヨコ歩いてゐる。

―姉さんくよくよするもんぢやないよ
 貧しき者は幸なりつてねヘツヘツ
 あゝ疲れた

私はあんまり淋しくて泣けて来た
ポタポタ大粒の涙が灰に落ちると
小人はジユンジユン消へてゐつてしまつた。
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 秋のこゝろ

秋の空や
樹や空気や水は
山の肌のやうに冷く清らかだ。

女のやうにうるんだ夜空は
たまらなくいゝな
朝の空も
夜の空も
秋はいゝな。

青い薬ビンの中に
朱いランタンの灯が
フラリフラリ
ステツキを振つて歩るく街の恋人達は
古いマツチのからに入れて
私は少女のやうにクルリクルリ
黄色い木綿糸を巻きませう。

夜明近くの森の色や鳥の声を見たり聞いたりすると
私のこゝろが真紅に破けそうだ
夜更けの田舎道を歩いて
虫の声を聞くと
切なかつた恋心が塩つぱい涙となつて
風に吹かれる

秋はいゝな
朝も夜も
私の命がレールのやうにのびて行きます。
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 接吻

はじめて接吻を知つた夜
桜がランマンと咲いて

月は赤かつた――

血をすゝるやうな男の唇に
わけても
わけても
月はくるくる舞つてゐた。
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 ロマンチストの言葉

―これでもか!
―まだまだ……
―これでもへこたれないか!
―まだまだ……

貧乏神がうなつて私の肩を叩いてゐる
そこで笑つて私は質屋の門へ
『弱き者よ汝の名は女なり』と大書した。
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 ほがらかなる風景

出帆だ! と吐唸つてゐるやうな百貨店の口
その口つぺたにツバを吐いて
小石のやうに私を蹴つた
ふそろいな流行の旗を立て沢山の不幸人が行くよ。

暮色に包まれた街の音に押されると
私は郊外の白い御飯を思ふ。

艶々とした健康な住家を思ひ浮べると
空高く口笛を吹いて銅貨の音が恋しくなつた
だが過失の卵ばかり生んでゐる
私はメン※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]だと思ふと泣けてしまふ。

だがその小さな汚れた卵はメリケン袋へ入れて
ほら百貨店の口へ
群集の頭へほうり投げてやらう。

くるりと廻転機をまはして私は風のやうに
爽やかに郊外の花畑を吹く。

真実生る楽しみは
嘘を言はないで毎日白い御飯が食べられることだ
ところで芙美子さんは幸福なんだよ
と誰かに一ツ呼びかけてやりたいね。
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いとしのカチユーシヤ
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 いとしのカチユーシヤ

    1
ぐいぐい陽向葵の花は延びて行つた

油陽照りの八月だ!
鼠色の風呂敷を背負つて
私は何度あの隧道を越へたらう。

その頃
釜の底のやうな直方の町に
可愛やカチユーシヤの唄が流行つて来た
炭坑の坑夫達や
トロツコを押す女房連まで
可憐な此唄を愛してゐた。

    2
私は固い玉葱のやうに元気だつた
月の出かけた山脈を背に
せめて淡雪とけぬまに……
炭坑から町までは小一里の道のりだ。

鯉の絵や富士山の絵の一本拾銭の白い扇子は
毎日々々私の根気と平行して売れて行つた
破船のやうな青いペンキ塗りの社宅を越すと
千軒長屋の汚ない坑夫部屋が芋虫のやうに並んでゐて
お上さん達は皆私を待つてゐてくれた。

    3
昼食時になると
炭坑いつぱいに銅羅が鳴り響いて
待ちかまへてゐたやうに
土の中からまるで石ころのやうな人間が飛び出して来る
『オーイ! カチユーシヤ飯にしろい!』
陽向葵はどんな荒れた土の上にも咲いてゐた
自由な空気をいつぱい吸つた坑夫達は
飯を頬ばつたり
女房の鼻をつまんだりして
キビキビした笑ひを投げあつてゐる
油陽照りの八月だ!

    4
直方の町は海鼠のやうに侘しい。

飯をしまつて石油を買ひに出ると
解放された夜の微風が
海月のやうなお月さんをかすめてゐる。
坑夫相手の淫売屋の行灯も
貝のやうに白々とさへて来る。

私の義父や母は
町や村を幾つも幾つも越して
陶器製造所や下駄工場へ
荷車を引いて行商に行つてゐた。

待ち侘びて道へ立つてゐると
軽そうな荷車を引いた義父の提灯が見へる
すると私は犬のやうに走つて
車を押してゐる母へすがりついた。

    5
雨が何日も降り続くと
暑苦しい木賃宿の二階で
永住の地を私達親子はどんなに恋しがつた事だらう。
町へ出ると
雪が降つてゐる停車場で
汽車の窓を叩いてゐる可憐な異人娘の看板を見た
その頃の私の雑記帳は
どの頁もカチユーシヤの顔でいつぱいだつた。

    6
『今日は事務所をぶつこはしに行くんだ。』
或日
口笛を吹き鳴らし吹き鳴らし炭坑へ行くと
あんなに静かだつた坑夫部屋の窓々が
皆殺気立つて
糸巻きのやうに空つぽのトロツコがレールに浮いてゐた。
重たい荷を背負つて隧道を越すと
頬かぶりをした坑夫達が
『おい! カチユーシヤ早く帰らねえとあぶねえぞ!』
私は十二の少女
カチユーシヤと云はれた事は
お姫様と言われた事より嬉しかつた
『あんやん[#「あんやん」に傍点]しつかりやつておくれつ!』

    7
純情な少女には
あの直情で明るく自由な坑夫達の顔から
正義の微笑を見逃しはしなかつた。
木賃宿へ帰つた私は
髪を二ツに分けてカチユーシヤの髪を結んでみた。
いとしのカチユーシヤよ!

農奴の娘カチユーシヤはあんなに不幸になつてしまつた。
吹雪、シベリヤ、監獄、火酒、ネフリユウドフ
だが何も知らない貧しい少女だつた私は
洋々たる望を抱いて野菜箱の玉葱のやうに
くりくり大きくそだつて行つた。
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 海の見へない街

凍つた空に響くのは
固い銅羅の音だ
街路樹が冬になると
人間の胃袋が汚れて来る。
すりきれた
すりきれた
都会の奈落にひしめきあふロボツト
ロボツトの足につないだプラチナの鎖は
金にあかした電流だ。

波の音が未来も過古もない荒んだ都会のセメントをザザザと崩す日を思へ!
大理石もドームも打破つてトンネルを造れ
海へ続くユカイなトンネルを造れ
海は波は
新しい芝居のやうに泡をたて
腰をゆり肩を怒らせ
胸を張り
真実切ないものを空へぶちまけてゐる。

汚れた土を崩す事は気安めではない
大きい冷い屋根を引つぺがへして
浪の泡沫をふりかけやうか!
それとも長い暗いトンネルの中へ
鎖の鍵を持つてゐるムカデを
トコロテンのやうに押し込んでやらうか!

奈落にひしめきあふ不幸な電気人形よ
波を叩いて飛ぶ荒鷲のツバサを見よ
海よ海!
海には自由で軽快な帆船がいつぱいだ。
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 情人

船の上から
一直線に飛びこんだ私――
上手に起きやうとすると
ふくらはぎに海鼠が這つて
私は恥かしくて
両手で乳房を抱きました。

波が荒くなつてくると
私は髪をほどいて
もうステバチになつたんです
ドンと突き当れば
ドンとはねつ返すパツシヨン
あゝ私は強い波の
打たれるやうな接吻を恋ひした。

ビロードのやうに青い波の上だよ
私は裸身を水にしぶかせて
只呆然と波に溺れたのです。

さあ私は人魚
抱きしめておくれ
私の新らしい恋人よ
船に置忘れた
可愛い水夫の夢もあつたが
私のことづけは白い鴎に
―いゝ情人が出来ました

あゝ私はうらぶれた人魚
遠くい遠くい飛んだ鴎よ
かへつておいでヒーロヒロ
―やつぱり淋しく候
―悲しく候
―青い人魚は死んでしまひ候。
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 雪によせる熱情

茫漠たる吹雪の野に
私は只一羽の荒鷲となつて
ゐつぱいの羽根
ゐつぱいの魂
せいゐつぱいの情熱を拡げて
ひと打ち!
ビユンと私は野を越へやう――

キリキリ キリキリ
美しい雪の砲丸
私は真赤な帽子をかぶつて
ゐつぱいの両手
ゐつぱいの心臓
せいゐつぱいの瞳を開いて
ころころ私は雪にまみれやう。

あの真蒼い雪!
雪の上からのし上がる断雲
あゝもれもれと上がる私の顔のスフインクス
野も山も雪も家も呑んでしまほう。

雪の上のスフインクスは
涙をふりちぎつて大空に息した
ゐつぱいの口
ゐつぱいの息
せいゐつぱいの胸をゆする。

ランマンと咲いた地球の上に
ランマンと飛ぶ雪の砲丸
さあゐつぱいの力だ
ゐつぱいに足をふまへて
私はせいゐつぱいに弓を張らう!
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 酔ひどれ女

鉄くづのやうにさびた木の葉が
ハラ/\散つてゆくと
街路樹は林立した帆柱のやうに
毎日毎日風の唄だ。

紫の羽織に黒いボアのうつるお嬢さん!
私はその羽織や肩掛けに熱い思ひをするのです。
美しい女
美しい街
お腹はこんなにからつぽなんです。
私は不思議でならない
働らいても働らいても御飯の食へない私と
美しい秋の服装と――

たつぷり栄養をふくんだ貴女の
頬つぺたのはり具合
貴女と私の間は何百里もあるんでせうかね――

つまらなくつて男を盗んだのです
そしてお酒に溺れたんですが
世間様は皆して
地べたへ叩きつけて
この私をふみたくつてしまふのです。
お嬢さん!
ますます貴女はお美しくサンゼンとしてゐます。

あゝこの寂しい酔ひどれ女は
血の涙でも流さねば狂人になつてしまふ
チクオンキの中にはいつて
吐唸りたくつても
冷たくて月のある夜は恥かしい

嘲笑したヨワミソの男や女達よ!
この酔ひどれ女の棺桶でもかつがして
林立した街の帆柱の下を
スツトトン
スツトトンでにぎはせてあげませう。
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 乗り出した船だけど

それはどろどろの街路であつた
こわれた自動車のやうに私はつゝ立つてゐる
今度こそ身売りをして金をこしらへ
皆を喜ばせてやらうと
今朝はるばると
幾十日めで東京へ旅立つて来たのではないか

どこをさがしたつて私を買つてくれる人もないし
俺は活動を見て五十銭のうな丼を食べたらもう死んでもいゝと云つた
今朝の男の言葉を思ひ出して
私はサンサンと涙をこぼしました。

男は下宿だし
私が居れば宿料が嵩むし
私は豚のやうに臭みをかぎながら
カフエーからカフエーを歩きまはつた
愛情とか肉親とか世間とか夫とか
脳のくさりかけた私には
縁遠いやうな気がします。

叫ぶ勇気もない故
死にたいと思つてもその元気もない
私の裾にまつはつてじやれてゐた
四国にのこした
小猫のオテクさんはどうしたらう……
時計屋の飾り窓に私は女泥棒になつた目つきをしてみやうと思ひました
何とうはべばかりの人間がウヨウヨしてゐることよ

肺病は馬の糞汁を呑むとなほるつて
辛い辛い男に呑ませるのは
心中つてどんなものだらう……

ヘイヘイ金でございますよ
金だ金だつて言ふけれど
私は働いても働いてもまはつてこない
金は天下のまはりものだつて言ふのにね。

何とかキセキは現はれないものか
何とかどうにか出来ないものか
私が働らいてゐる金
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