かが金を持って、この天幕を訪れる。私は鉛筆をなめながら、註文主の代筆で三行の文章を綴る。みんな美しい奴隷を求める下心だ。その下心を三行に綴るのが私の仕事。もう、私の頭の中には詩も童話も何もない。
 長い小説を書きたいと想う事があっても、それは只、思うだけだ。思うだけの一瞬がさあっと何処かへ逃げてゆく。
 花柳病院の広告を頼みに来る医者もいる。まことに、芸妓募集、花柳病院とは充実したものだ。私は皮肉な笑いがこみあげて来る。あらゆるファウストは女に結婚を約束して、それからすぐ女を捨てる。三行広告にもいろいろな世相が動いている。
 それが証拠には、産婆の広告も毎日やって来る。子供やりたしとか、貰いたしとか、いかようにも親切に相談とか。広告を書きながら、私は私生児を産みに行く女の唸り声を聞くような気がする。
 そして、私は、毎日、いぼ[#「いぼ」に傍点]さんから八十銭の日給を頂戴してとことこ本郷まで歩いて帰るのだ。
 感化院。養老院。狂人病院。警察。ヒミツタンテイ。ステッキガール。玉の井。根津あたりの素人淫売宿。あらゆる世相が都会の背景にある。
 或る作家|曰《いわ》く、三万人の作家志望者の、一番どんじりにつくつもりなら、君、何か書いて来給え……。ああ、怖るべき魂だ。あの編輯者が、私を二時間も待たせる根性と少しも変りはない。
 私は生涯、この歩道の天幕の広告取りで終る勇気はない。天幕の中は六月の太陽でむれるように暑い。ほこりを浴びて、私はせいぜい小っぽけな鉛筆をくすねるだけで生きている。
 北海道の何処かの炭坑が爆発したのだそうだ。死傷者多数ある見込み……。銀座の鋪道《ほどう》はなまめかしくどろどろに暑い。太陽は縦横無尽だ。新聞には、株で大富豪になった鈴木某女の病気が出ている。たかが株でもうけた女の病気がどうであろうと、犯罪は私の身近にたたずんでいる。
 株とは何なのか私は知らない。濡手で粟《あわ》のつかみどりと云う幸運なのであろう。人間は生れた時から何かの影響に浮身をやつしている。
 三万人の尻っぽについて小説を書いたところで、いったい、それが何であろう、運がむかなければどうにも身動きがならぬ。
 夜、独りで浅草に行く。ジンタの音を聴くのは気持ちがいい。誰かが日本のモンマルトルだと云った。私には、浅草ほど愉しいところはないのだ。八ツ目うなぎ屋の横町で、三十銭のちらし寿司をふんぱつする。茶をたらふく飲んで、店の金魚を暫《しばら》く眺めて、柳さく子のプロマイドをエハガキ屋でいっとき眺める。
 どの路地にもしめった風が吹いている。
 ふっと、詩を書きたくなる一瞬がある。歩きながら眼を細める。何処からも相手にされない才能、あの編輯者のことを考えるとぞおっとして来る。まんまと人の原稿をすり替えた男。この不快さは一生忘れないぞと思う。私にだって憎悪の顔がある。何時も笑っているのではありません。笑顔で窒息しそうになる気持ちを幸福な人間は知るまい。私は、そんな人間の前で笑っていると、胸の中では呼吸のとまりそうな窒息感におそわれる。
 一つの不運がそうさせるのだ。
 残酷な人の心。チエホフの、アルビオンの娘みたいなものだ。
 寿司屋では茶柱が二本も立ったので、眼をつぶってその辻占《つじうら》をぐっと呑みこんでしまった。だから、お前はいやしいと云うのだ。ほんの少しの事にでもキタイ[#「キタイ」に傍点]を持ちたがる。たかが広告取りの女に、誰が何をしてくれると云うのだねと、神様みたいなものがささやきかける。また、あの糠。いやな、日向《ひなた》臭い糠――。帰り合羽橋へ抜けて、逢初町の方へ出るところで、辻潤の細君だと云うこじまきよさんに逢う。
 逢初の夜店で、ロシヤ人が油で揚げて白砂糖のついたロシヤパンを売っていた。二つ買う。
 現実に戻ると、日給の八十銭は仲々ありがたい。

        *

(七月×日)
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薄曇り四年にわたる東京の
隙間をもれて
思い出はこの空気の濁り
午後にやむ雨
蝉《せみ》の声網目の如し
胸の轟《とどろ》き小止《おや》みめぐる血
西片町のとある垣根の野薔薇《のいばら》
其処《そこ》ここに捉《とら》われる風

小さき詩人よ
所在《ありか》なくさまよう詩人
窮して舞う銭なしの詩人
寂寞の重さにひしがれ
彷徨《さまよ》うは旅の夢跡
何処《どこ》やらに琴のきこゆる
消える音 消える夢

西片町の静かなる朝
金魚屋のいこう軒
浸み渡る円《えん》の水
赤い尾ひれのたまゆらの舞い

咽喉《のど》がかわく
真白な歯は水くぐる
歓びは枇杷《びわ》の果のしたたり
盗みて食う庭かげ
酢くしわめる舌は
英吉利《イギリス》語の如し

不愉快なバイブルの革表紙
しめって臭く犬の皮むけ
西片町の邸の匂い
枇杷の実はくさったまま
木もれびの下のキジ猫
森閑と静もれる西片町

金魚屋のバッカン帽子が呟く
詩人もしゃがむ
円にうつす水鏡
雲に浮く金魚の合唱
生死のほどはいまもわからぬ
ただこの姿あるうちに召しませ

西洋洗濯のペンキ車
白い陶の表札と呼鈴
時間のとどまる一瞬の朝
この家々が澄まして悪を憎む
ペンキ車は後追う詩人
どこやらでうそ[#「うそ」に傍点]の鳴き声
世に叫ぶ何ものも持たざる詩人
開闢《かいびゃく》とは今日のことなり
昨日はもうすでに消え
あるは今日のみ今の現実
明日が来るのか……
明日があるのか詩人は知らぬ
[#ここで字下げ終わり]

(七月×日)
[#ここから2字下げ]
斑々《まだらまだら》に立つ斑々
人生の青さの彼方《かなた》
重く軽く生きる斑々
燈火によるかげろう
只ひきずられて生きる
忽然《こつぜん》と消えるも知らず
希望らしげな斑々の顔
悪念|怨恨《えんこん》その日暮し
どうせ死ぬ日があるまでは
ムイシュキン様の憤怒《ふんぬ》絶望。

よりにもよって暗い顔
楽しい月日の人生なぞとは
あわあわとたわけたことだ
辛抱強くよくも飽きずに
Mボタンをはずしたり閉めたり
閃《ひらめ》き吹きあげる焔《ほのお》の息

斑々の辛抱強さの厚顔
頻《しき》りと雷同する斑々
時々はあじさいの地位名誉
下碑が鍋尻を洗う容貌《きりょう》

軽く重く衝突する斑々
床の間には忠孝
欄間には洗心
壁間には欲張った風流
ああ私は下婢となって
毎日毎日鍋尻を洗うのだ
斑々の偽善!
[#ここで字下げ終わり]

 自分が何故こんなところにいるのか判らない。只、何となく家庭らしさをあこがれて来たようなあいまいな気持ちばかり。五円のおてあてではどうにもならぬ。――旦那さまは大学の先生だと云う。何を教えているのかさっぱり判らない。英国へ行っていたけいれき[#「けいれき」に傍点]はあるのだそうだ。毎朝パン食。牛乳が一本。ひげをそって、水色裏の蝙蝠傘《こうもりがさ》を持って御出勤になる。大学までは、ほんの眼と鼻のところだのに、蝙蝠傘の装飾が入用なのだ。暑くても寒くても動じぬ人柄なり。歴史を語るのだそうだけれども、私は一度も講義を聞いたことはない。奥さんは年上で、もう五十位にはなっているのだろう。彫の深い面のような顔、表札の陶に似た濃化粧だ。奥さんの姪《めい》が一人。赤茶色の艶《つや》のない髪を耳かくしに結って鏡ばかり見ている。額が馬鹿に広くて、眼の小さいところがメダカに似ている。三十を過ぎたひとだそうだけれども、声が美しい。この暑いのにいつも足袋をはいたかたくるしさ。私は、この民子さんの素足を見た事がない。
 喜びにつけ、悲しみにつけ、私は私の人生に倦怠《けんたい》を感じはじめた。偶然から湧《わ》いて来る体験、そンなものにほとほと閉口|頓首《とんしゅ》、男といっしょにいるのも厭《いや》、夜の酒場勤めも長続きするものではないとなれば、結局は女中にでもなるより仕方がないけれど、これも私の柄にはあわない。今日で三日になるけれど、何となく居辛い。ここの雨戸の開閉がむずかしいように、何とも不馴れなことばかりなり。
 己惚《うぬぼ》れの強さがくじけてしまう。何とも楽なことではないけれども、楽をしようなぞとは思わぬかわりに、ほんの少々のひま[#「ひま」に傍点]がほしい。女中ふぜいが、深夜に到るまで本を読んでいるなぞとは使いづらいに違いない。こちらも気の引けることだけれども、今夜こそは早く電気を消して眠りにつこうと思いながら、暗いところではなおさらさえざえとして頭がはっきりして来る。越し方、行末のことがわずらわしく浮び、虚空を飛び散る速さで、瞼《まぶた》のなかを様々な文字が飛んてゆく。
 速くノートに書きとめておかなければ、この素速い文字は消えて忘れてしまうのだ。
 仕方なく電気をつけ、ノートをたぐり寄せる。鉛筆を探しているひまに、さっきの光るような文字は綺麗に忘れてしまって、そのひとかけらも思い出せない。また燈火を消す。するとまた、赤ん坊の泣き声のような初々しい文字が瞼に光る。段々疲れて来る。いつの間にかうとうとと夢をみる。天幕のなかで広告とりをしていた夢、浅草の亀。物柔らかな暮しと云うものは、私の人生からはすでに燃えつくしている。自己錯覚か、異様な狂気の連続。ただ、落ちぶれて行く無意味な一隅。ハムスンの飢えのなかには、まだ、何かしらたくらみを持った希望がある。自分の生きかたが、無意味だと解った時の味気なさは下手な楽譜のように、ふぞろいな濁った諧音《かいおん》で、いつまでも耳の底に鳴っているのだ。

(七月×日)
 暑いので、胸や背中にあせもが出来る。帯をしっかり結んでいるので、何とも暑い。蝉がジンヤジンヤと啼《な》きたてている。台所で水を何杯も飲む。窓にかぶさっている八ツ手の葉が暑っくるしい。明日は一応ひまを取って、千駄木へ帰ろうと思う。
 こうしていてはどうにもならないのだ。五円の収入では田舎へ仕送りも出来ない。心の籠《こも》った美しい世界は何処にもない。自分で自分を卑しむ事ばかりだ。己惚れと云うものが、第一に自分を不遇のなかに追いこんでいるのだ。ものを書きたい気持ちなぞ何もなるものではないくせに、奇抜なことばかり考えては、自分で自分をあざけり笑うのみ。人には云えないけれど、自分がおかしい。何もまともなものは書けもしないくせに、文字が頭の芯にいつも明滅していると云う事はおかしい事なのだ。たかが田舎者のくせに、いったい文学とは何事なのでございましょうか? 神様よ。屡々《しばしば》、異様な人生が私にはある。そして、それに流されている。何かをやってみる。そして、その何かがすぐ不成功に終る。自信がなくなる。
 失敗は人をおじけさせてしまう。男にも、職業にも私はつまずいてばかりいる。別に、誰が悪いと恨むわけではないのだけれども、よくもこんなに、神様は私と云うとるにたらぬ女をおいじめになるものだ。神様と云うものは意地の悪いものだ。あなたは、戦慄《せんりつ》と云う事を感じた事はないのだろう……。
 やかましい音をたててジョウサイ屋が路地口に来る。物売りの男を見るたびに、行商をしている義父の事を思い出す。たまには五十円位もぽんと送ってやれないものかと思う。隣家の垣根に、ひまわりが丈高く後むきに咲いているのが見える。
 来世は花に生まれて来たいような物哀しさになる。ひまわりの黄は、寛容な色彩。その色彩の輪のなかに、自然だけが何とない喜びをただよわせている。人間だけが悩み苦しむと云ういわれ[#「いわれ」に傍点]を妙な事だと思う。――奥さんは近いうち新潟へ帰郷の由。早くこの家を出なければならぬ。
 夕方、八重垣町の縫物屋へ奥さんの夏羽織の仕立物を取りに行く。戸外を歩いていると吻《ほっ》とする。どの往来も打水がしてある。今日は逢初の縁日だと、とある八百屋の店先きで人が話しあっている。バナナがうまそうだし、西瓜も出ている。久しく西瓜も食べた事がない。
 ふっと、田舎へ帰りたい気がする。赤い袴《はかま》をはいた交換手らしい女が三四人で私の前をはしゃぎながら行く。大正琴の音色がしている。季節らしさのこもった夕暮なり。金さえあれば旅行も出来よう、この季節らしさが口惜しくなって来る。いつま
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