、それでもいいし、少し長く眠れるなんて、幸福な逃げ道ではないか、すべては直線に朗かに。

(三月×日)
 五色のテープがヒラヒラ舞っていた。
 どこかで爆竹の弾ける音がすさまじく耳のそばでしている。飛行機かしら、モータボートかしら……私の錯覚から、白い泡を飛ばしている海の風景が空の上に見えてきました。銀色の燈台が限の底に胡麻粒《ごまつぶ》程に見えたかと思うと、こんどはまるで象の腹のようなものが眼の中じゅうに拡がって、私はずしんずしん地の底に体をゆりさげられているようだった。十子が私の裸の胸に手拭を当ててくれている。私はどうしても死にたくないと思った。眼をあけると、瞼《まぶた》に弾力がなくて、扇子をたたむようにくぼんで行く。私は死にたくない……。「若布《わかめ》とかまぼこ[#「かまぼこ」に傍点]のてんぷらと、お金が五円きていますよ。」私は瞼を締める事が出来なかった。耳の中へゴブゴブ熱い涙がはいって行く。枕元で、鋏《はさみ》をつかいながら十子が、母さんのところから送って来た小包をあけてくれた。お母さんが五円送ってくれるなんて、よっぽどの事だと思う。階下の叔母さんがかゆをたいて持って来てくれた。気持ちがよくなったら、この五円を階下へあげて、下谷の家を出ようと思う。
「洗濯屋の二階だけれどいいところよ、引越さない?」
 私は生きていたい。死にそくないの私を、いたわってくれるのは男や友人なんかではなかった。この十子一人だけが、私の額をなでていてくれている。私は生きたい。そして、何でもいいから生きて働く事が本当の事だと思う――。
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 私は生きる事が苦しくなると、故郷というものを考える。死ぬる時は古里で死にたいものだとよく人がこんなことも云うけれども、そんな事を聞くと、私はまた故郷と云うものをしみじみと考えてみるのだ。
 毎年、春秋になると、巡査がやって来て原籍をしらべて行くけれど、私は故郷というものをそのたびに考えさせられている。「貴女のお国は、いったいどこが本当なのですか?」と、人に訊《き》かれると、私はぐっ[#「ぐっ」に傍点]と詰ってしまうのだ。私には本当は、古里なんてどこでもいいのだと思う。苦しみや楽しみの中にそだっていったところが、古里なのですもの。だから、この「放浪記」も、旅の古里をなつかしがっているところが非常に多い。――思わず年を重ね、色々な事に旅愁を感じて来ると、ふとまた、本当の古里と云うものを私は考えてみるのだ。私の原籍地は、鹿児島県、東桜島、古里温泉場となっています。全く遠く流れ来つるものかなと思わざるを得ません。私の兄弟は六人でしたけれど、私は生れてまだ兄達を見た事がないのです。一人の姉だけには、辛い思い出がある。――私は夜中の、あの地鳴りの音を聞きながら、提灯をさげて、姉と温泉に行った事を覚えているけれど、野天の温泉は、首をあげると星がよく光っていて、島はカンテラをその頃とぼしていたものだ。「よか、ごいさ。」と、云ってくれた村の叔母さん達は、皆、私を見て、他国者と結婚した母を蔭でののしっていたものだ。もうあれから十六七年にはなるだろう。
 夏になると、島には沢山青いゴリがなった。城山へ遠足に行った時なんか、弁当を開くと、裏で出来た女竹《めたけ》の煮たのが三切れはいっていて、大阪の鉄工場へはいっていた両親を、どんなにか私は恋しく思った事です。――冬に近い或る夜。私は一人で門司まで行った記憶もあります。大阪から父が門司までむかいに来てくれると云う事でしたけれど、九ツの私は、五銭玉一ツを帯にくるくる巻いてもらって、帯に門司行きの木札をくくって汽車に乗ったものです。
 肉親とはかくもつれなきものかな! 花が何も咲いていなかったせいか、私は門を出がけに手にさわった柊《ひいらぎ》の枝を折って、門司まで持って行ったのを覚えています。門司へ着くまで、その柊の枝はとても生々していました。門司から汽船に乗ると、天井の低い三等船室の暗がりで、父は水の光に透かしては、私の頭の虱《しらみ》を取ってくれた。鹿児島は私には縁遠いところである。母と一緒に歩いていると、時々少女の頃の淋しかった自分の生活を思い出して仕方がない。
「チンチン行きもんそかい。」
「おじゃったもはんか。」
 などと云う言葉を、母は国を出て三十年にもなるのに、東京の真中で平気でつかっているのだ。――長い事たよりのなかった私達に、姉が長い手紙をくれて言う事には、「母さん! お元気ですか、いつもお案じ申しています。私はこの春、男の子を産みましたけれど、この五月は初のせっくです、華やかに祝ってやりたくぞんじます。」私はその手紙を見て、どんなにか厭な思いであった。そうして私の心は固く冷たかった。「お母さん! 義理だとか人情だとか、そんな考えだけは捨てて下さい。長い間、私達はどれだけの義理にすがって生きていたのでしょうか、人情にすがっていたのでしょうか、いつも蹴とばされ、はねられどおしで三人はこれまで来たのですよ。私は赤ん坊に祝ってやる事をおしんでいるのではないのですけれども、覚えていますかお母さん!」困って、最後に、凭《よ》りすがった気持ちで、私は昔姉に借金の手紙を出した事がある。すると姉からの返事は、私はお前を妹だとは思ってやしない。私をそだててくれもしない母親なんてありようがないのだし、私はお前にどんな事をする義務があるのです。遠い旅空で、たった十円ばかりの金に困る貴女達親子の苦しみは、それは当り前のことですよ。故郷や、子供を捨てて行く親の事を思うと、私は鬼だと思っているくらいです。以後たよってはくれぬように――。それ以後、この世の中はお父さんとお母さんと私の三人きりの世界だと思った。どんなに落ちぶれ果てても、幼い私と母を捨てなかったお父さんの真実を思うと、私はせいいっぱいの事をして報いたく思っている。姉の気持ち、私の気持ち、これを問題にするまでもなく数千里の距離のある事だ。だのに、華やかに赤ん坊を祝ってほしい何年ぶりかの姉の手紙をみて、母は何か送って祝ってやりたいようであった。――だが私は今でもあの姉の手紙を憎んでいる。どんなにか憎まずにはいられないのだ。本当に憎んでいるのだ。――いまだかつて温かい言葉一つかけられなかった古里の人たちに、そうして姉に、いまの母は何かすばらしい贈物をして愕《おどろ》かせたいと思っているらしい。「お母さん! この世の中で何かしてみせたい、何か義理を済ませたいなんて、必要ではないではありませんか。」と私はおこっているのであった。ああだけど、母のこの小さな願いをかなえてやりたいとも思う。私は何と云うひねくれ者であろうか、長い間のニンタイが、私を何も信じさせなくしてしまいました。肉親なんて犬にでも喰われろと云った激しい気持ちになっている。

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ああ二十五の女心の痛みかな
遠く海の色透きて見ゆる
黍畑《きびばたけ》に立ちたり二十五の女は
玉蜀黍《とうもろこし》よ、玉蜀黍
かくばかり胸の痛むかな
二十五の女は海を眺めて只呆然となり果てぬ。

一ツ二ツ三ツ四ツ
玉蜀黍の粒々は、二十五の女の侘しくも物ほしげなる片言なり
蒼い海風も
黄いろなる黍畑の風も
黒い土の吐息も
二十五の女心を濡らすかな。

海ぞいの黍畑に立ちて
何の願いぞも
固き葉の颯々と吹き荒れるを見て
二十五の女は
真実命を切りたき思いなり
真実死にたき思いなり

伸びあがり伸びあがりたる
玉蜀黍は儚なや実が一ツ
ここまでたどりつきたる二十五の女の心は
真実男はいらぬもの
そは悲しくむずかしき玩具ゆえ

真実世帯に疲れるとき
生きようか、死のうか
さても侘しきあきらめかや
真実友はなつかしけれど一人一人の心故……

黍の葉の気ぜわしいやけなそぶりよ
二十五の女心は
一切を捨て走りたき思いなり
片眼をつむり片眼をひらき
ああ術《すべ》もなし男も欲しや旅もなつかし
ああもしようと思い
こうもしようと思う……
おだまきの糸つれづれに
二十五の呆然と生き果てし女は

黍畑の畝に寝ころび
いっそ深々と眠りたき思いなり

ああかくばかりせんもなき
二十五の女心の迷いかな。
[#ここで字下げ終わり]

 これだけがせいいっぱいの、私のいまの生きかたなのです、そしてこの頃の私は、火のような懊悩《おうのう》が、心を焼いている。さあ! もっと殴って、もっと私をぶちのめして下さい。私は土の崩れるような大きな激情がよせて来ると、何もかもが一切|虚《むな》しくなりはてて、死ぬる事や、古里の事を考え出してくる。だけど、ナニクソ! たまには一升の米も買いたいと言っていたあの頃の事を考えると、私は自分をほろぼすような悪念を克服してゆく事に努力をしなければなりません。この「放浪記」は、私の表皮にすぎない。私の日記の中には、目をおおいたい苦しみがかぎりなく書きつけてある。

 これからの私は、私の仕事に一生懸命に没入しようと思っている。子供のような天真な心で生きて行きたいと思うけれども、この四五年の私の生活は、体の放浪や、旅愁なんかと云うなまやさしいものではなかった。行くところもないようないまだに苦しい生活の連続でした。私はうんうん唸ってすごして来ました。どこまでが真実なのか、どこまでが嘘なのか、見当もつかない色々なからくりを見て、むかしの何か愉しいものが、もういまは、ほんとうに何もなかったのだと云う淋しさ……。空へのあこがれ、土へのあこがれ、沈黙って遠い姉にも、何か祝ってやってもいいではないかとも思っています。母の弱い気持ちもなごむにちがいないのです。愚にもつかない私のひねくれた気持ちを軽蔑《けいべつ》するがいい。黍畑のあぜに寝ころび、いっそ深々と眠りたき思いなりです。そこで、この頃の私はじっと口をつぐんで、しっかり自分の仕事に没入してゆきたい事がたった一ツの念願であり、ただ一筋の私の行くべき道だと思うようになりました。

 林芙美子と云う名前は、少々私には苦しいものになって来ました。甘くて根気がなくて淋しがりやで。私は一度、この名前をこの世の中からほんとうになくしてしまいたいとさえ考えています。道を歩いている時、雑誌のポスターの中に、「林芙美子」と云う文字を見出す時がある。いったい林芙美子とはどこの誰なのだろうと考えています。街を歩いている私は、街裏の女よりも気弱で、二三年も着古した着物を着て、石突きの長い雨傘を持って、ポクポク道を歩いている。昔の私は、着る浴衣もなくて、紅い海水着一枚で蟄居《ちっきょ》していた事もある。少しばかり原稿がうれだして来ると、「三万円もたまりましたか?」と訊くひとが出て来たけれども、全くこれは動悸《どうき》のする話でした。私の家の近くにあぶらやと云う質屋があるけれども、ここのおやじさんだけは、林芙美子と云うのは案外貧乏文士だねと苦笑しているに違いない。
 小都会の港町に生れた赤毛の娘は、そのおいたちのままで、労働者とでも連れ添っていた方が、私にはどんなにか幸福であったかも知れない。今の生活は、私と云うものを、広告のようにキリキザンで方々へ吹き飛ばしているようなものでしょう。生活がまるで中途半端であり、生活が中途半端だからよけいに苦しい。――少しばかり生活が楽になった故、義父も母も呼びよせてはみたけれども、貧しく、あのように一つに共同しあっていた者達の気持ちが、一軒の家に集まってみると、一人一人の気持ちが東や西や南へてんでに背を向けているのでした。皆、円陣をつくって、こちらへ向いて下さいと願っても、一人一人が一国一城の主《あるじ》になりすぎているのです。かわやへなぞ這入っていると、思わず涙が溢れる事がある。長い間親達から離れていると、血を呼ぶ愛情はあっても、長い間一ツになって生活しあわないせいか、その愛情と云うものが妙に薄くなってしまっているのを感じている。
 放牧の民のようであった私の一族と云うものが、いまは、一定の土地に落ちついて、私の云う、半安住生活に落ちついている異民族的な集りになりましたけれど、そして、皆々東や西や南へ向って行く気持ちは解
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