「俺ァ鰯《いわし》をもういっぺん食べてえなア。」
 山国の小学生の男の子達が魚の話を珍らしげに話していた。私は二円の宿代を払って、外へ散歩に出てみた。雲がひくくかぶさっている。街をゆく人達は、家々の深いひさしの下を歩いている。芝居小屋の前をすぎると長い木橋があった。海だろうか、河なのだろうか、水の色がとても青すぎる。ぼんやり立って流れを見ていると、目の下を塵芥《じんかい》に混って鳩の死んだのがまるで雲をちぎったように流れていっていた。旅空で鳩の流れて行くのを見ている私。ああ何もこの世の中からもとめるもののなくなってしまったいまの私は、別に私のために心を痛めてくれるひともないのだと思うと、私はフッと鳩のように死ぬる事を考えているのだ。何か非常に明るいものを感じる。木橋の上は荷車や人の跫音《あしおと》でやかましく鳴っている。静かに流れて行く鳩の死んだのを見ていると、幸福だとか、不幸だとか、もう、あんなになってしまえば空《くう》の空《くう》だ。何もなくなってしまうのだと思った。だけど、鳥のように美しい姿だといいんだが、あさましい死体を晒す事を考えると侘しくなってくる。駅のそばで団子を買った。
「この団子の名前は何と言うんですか?」
「ヘエ継続だんごです。」
「継続だんご……団子が続いているからですか?」
 海辺の人が、何て厭な名前をつけるんでしょう、継続だんごだなんて……。駅の歪《ゆが》んだ待合所に腰をかけて、白い継続だんごを食べる。あんこをなめていると、あんなにも死ぬる事に明るさを感じていた事が馬鹿らしくなってきた。どんな田舎だって人は生活しているんだ。生きて働かなくてはいけないと思う。田舎だって山奥だって私の生きてゆける生活はあるはずだ。私のガラスのような感傷は、もろくこわれやすい。田舎だの、山奥だの、そんなものはお伽噺《とぎばなし》の世界だろう。煤けた駅のベンチで考えた事は、やっぱり東京へかえる事であった。私が死んでしまえば、誰よりもお母さんが困るのだもの……。
 低迷していた雲が切れると、灰をかぶるような激しい雨が降ってきた。汐《しお》くさい旅客と肩をあわせながら、こんなところまで来た私の昨日の感傷をケイベツしてやりたくなった。昨夜の旅館の男衆がこっちを見ている。銀杏返しに結っているから、酌婦かなんかとでも思っているのかも知れない。私も笑ってやる。
 長い夜汽車に乗った。

(九月×日)
 又カフエーに逆もどり。めちゃくちゃに狂いたい気持ちだった。めちゃくちゃにひとがこいしい……。ああ私は何もかもなくなってしまった酔いどれ女でございます。叩きつけてふみたくって下さい。乞食と隣りあわせのような私だ。家もなければ古里も、そしてたった一人のお母さんをいつも泣かせている私である。誰やらが何とか云いましたって……、酒を飲むと鳥が群れて飛んで来ます。樹がざわざわ鳴っているような不安で落ちつけない私の心、ヘエ! 淋しいから床を蹴《け》って、心臓が唄います事に、凭《よ》りどころなきうすなさけ、ても味気ないお芙美さん……。誰かが、めちゃくちゃに酔っぱらった私の唇を盗んで行きました。声をたてて泣いている私の声、そっと眼を挙げると、女達の白い手が私の肩に鳥のように並んでいました。
「飲みすぎたのね、この人は感情家だから。」
 サガレンのお由さんが私のことを誰かに言っている。私は血の上《のぼ》るようなみっともなさを感じると、シャンと首をもたげて鏡を見に立って行った。私の顔が二重に写っている鏡の底に、私を睨《にら》んでいる男の大きい眼、私は旅から生きてかえった事がうれしくなっている。こんな甘いものだらけの世の中に、自分だけが真実らしく死んで見せる事は愚かな至りに御座候だ。継続だんごか! 芝居じみた眼をして、心あり気に睨んでいる男の顔の前で、私はおばけの真似でもしてみせてやりたいと思う。……どんな真実そうな顔をしていたって、酒場の男の感傷は生ビールよりはかないのですからね、私がたくさん酒を呑んだって帳場では喜んでいる、蛆虫メ!
「酔っぱらったからお先に寝さしてもらいます。」
 芙美子は強し。

(十月×日)
 秋風が吹く頃になりました。わたしはアイーダーを唄っています。
「ね! ゆみちゃん、私は、どうも赤ん坊が出来たらしいのよ、厭になっちまうわ……」
 沈黙《だま》って本を読んでいる私へ、光ちゃんが小さい声でこんな事を云った。誰もいないサロンの壁に、薔薇《ばら》の黄いろい花がよくにおっていた。
「幾月ぐらいなの?」
「さあ、三月ぐらいだとおもうけど……」
「どうしたのよ……」
「いま私んとこ子供なんか出来ると困るのよ……」
 二人はだまってしまった。おでんを食べに行った女達がぞろぞろかえって来る。
 私のいやな男が又やって来る。えてして芝居もどきな恰好で、女を何とかしようと云うものに、ろく[#「ろく」に傍点]なのはいない。こんなお上品な男の前では、大口をあけて、何かムシャムシャ食べているに限ります。私はうで玉子を卓子の角で割りながら、お由さんと食べる。
「おゆみさんいらっしゃいよ。」
 酔いどれ女の芸当がまた見たいんですか、私は表に出てゆくと、街を吹く秋の風を力いっぱい吸った。エプロンをはずして、私もこの人混の中にはいってみたいと思った。露店が雨のようにならんでいる。
「一寸おたずねしますが、お宅は女給さん入《い》らないでしょうか?」
 昔のスカートのように、いっぱいふくらんだ信玄袋を持った大きい女が、人混から押されて私の前に出て来た。
「さあ、いま四人もいるのですけれど、まだ入ると思いますよ、聞いてあげましょうか、待っていらっしゃい。」
 ドアを押すと、あの男は酔いがまわったのか、お由さんの肩を叩いて言っていた。
「僕はどうも気が弱くてね。」
 御もっとも様でございますよ。――連れて来てごらんと云うお上さんの言葉で、台所からまわって、私は信玄袋の女をまねくと、急に女は泣き出して言った。「私は田舎から出て来たばかりで、初めてなんですが、今晩行くところがないから、どうしてもつかって下さい、一生懸命働きます。」と云っている。うすら冷たい風に、メリンスの単衣《ひとえ》がよれよれになって寒そうだった。どうせ、こんなカフエーなんて、女でありさえすればいいのだもの、この女だって、信玄袋をとれば鏡をみつめ出すにわかっています。
「お上さん、とても店には女がたりないんですからおいてあげて下さいよ。」
 上州生れで、繭《まゆ》のように肥った彼女は、急な裏梯子《うらばしこ》から信玄袋をかついで二階の女給部屋に上って行った。「お蔭様でありがとうございます。」暗がりにうずくまっている女の首が太く白く見えた。
「あなた、いくつ?」
「十八です。」
「まあ若い……」
 女が着物をぬいで不器用な手つきで支度をしているのをそばでじっと見ていると、私は何かしら眼頭が熱くなって来た。ああ暗がりって、どうしてこんなにいいものなのだろう、埃のいっぱいしている暗い燈の下で、唇を毒々しくルウジュで塗った女達が、せいいっぱいな唄をうたっている。おお神様いやなことです。
「ゆみちゃん! あの人がいらっしゃってよ。」
 いつまでもこの暗がりで寝転がっていたいのに、由ちゃんが何か頬ばりながら二階へ上ってきた。新らしくきた女のひとにエプロンを貸してやる。妙にガサガサ荒れた手をしていた。
「私、一度世帯を持った事がありましてね。」
「…………」
「これから一生懸命働きますから、よろしくお願いいたします。」
「ここにいる人達は、皆同じことをして来た人達なんだから、皆同じようにしていりゃいいのよ。場銭《ばせん》が十五銭ね、それから、店のものはこわさないようになさい、三倍位には取られてしまうのよ、それから、この部屋で、お上さんも旦那も、女給もコックも一緒に寝るんだから、その荷物は棚へでもあげておおきなさい。」
「まあこんなせまいところにねるのですか。」
「ええそうなのよ。」
 階下へ降りると、例の男がよろよろ歩いて来て私にいった。
「どっか公休日に遊びに行きませんか!」
「公休日? ホッホホホホ私とどっかへ行くと、とても金がかかりますよ。」
 そうして私は帯を叩いて言ってやった。
「私赤ん坊がいるから当分駄目なんですよ。」

        *

(十二月×日)
「飯田がね、鏝《こて》でなぐったのよ……厭になってしまう……」
 飛びついて来て、まあよく来たわね、と云ってくれるのを楽しみにしていた私は、長い事待たされて、暗い路地の中からしょんぼり出て来たたい[#「たい」に傍点]子さんを見ると、不図《ふと》自動車や行李《こうり》や時ちゃんが何か非常に重荷になってきてしまって、来なければよかったんじゃないかと思えて来た。
「どうしましょうね、今さらあのカフエーに逆もどりも出来ないし、少し廻って来ましょうか、飯田さんも私に会うのはバツが悪いでしょうから……」
「ええ、ではそうしてね。」
 私は運転手の吉さんに行李をかついでもらうと、酒屋の裏口の薬局みたいな上りばなに行李を転がしてもらって、今度は軽々と、時ちゃんと二人で自動車に乗った。
「吉さん! 上野へ連れて行っておくれよ。」
 時ちゃんはぶざまな行李がなくなったので、陽気にはしゃぎながら私の両手を振った。
「大丈夫かしら、たい子さんって人、貴女の親友にしちゃあ、随分冷たい人ね、泊めてくれるかしら……」
「大丈夫よ、あの人はあんな人だから、気にかけないでもいいのよ、大船に乗ったつもりでいらっしゃい。」
 二人はお互に淋しさを噛み殺していた。
「何だか心細くなって来たわね。」
 時ちゃんは淋しそうに涙ぐんでいる。

「もうこれ位でいいだろう、俺達も仕事しなくちゃいけないから。」
 十時頃だった、星が澄んで光っている。十三屋の櫛屋のところで自動車を止めてもらうと、時ちゃんと私は、小さい財布を出して自動車代を出した。
「街中乗っけてもらったんだから、いくらかあげなきゃあ悪いわ。」
 吉さんは、私達の前に汚れた手を出すと、
「馬鹿! 今日のは俺のセンベツだよ。」と云った。
 吉さんの笑い声があまり大きかったので、櫛屋の人達もビックリしてこっちを見ている。
「じゃ何か食べましょう、私の心がすまないから。」
 私は二人を連れると、広小路のお汁粉屋にはいった。吉さんは甘いもの好きだから、ホラお汁粉一杯上ったよ! ホラも一ツ一杯上ったよ! お爺さんのトンキョウな有名な呼び声にも今の淋しい私には笑えなかった。「吉さん! 元気でいてね。」時ちゃんは吉さんの鳥打帽子の内側をかぎながら、子供っぽく目をうるませていた。――歩いて私達が本郷の酒屋の二階へ帰って行った時はもう十二時近かった。夜更けの冷たい鋪道の上を、支那蕎麦屋の燈火が通っているきりで、二人共沈黙って白い肩掛を胸にあわせた。

 酒屋の二階に上って行くと、たいさんはいなくて、見知らない紺がすりの青年が、火の気のない火鉢にしょんぼり手をかざしていた。何をする人なのかしら……私は妙に白々としたおもいだった。寒い晩である。歯がふるえて仕方がない。
「たい子さんと云うひとが帰らなければ私達は寝られないの?」
 時ちゃんは、私の肩にもたれて、心細げに聞いている。
「寝たっていいのよ、当分ここにいられるんだもの、蒲団を出してあげましょうか。」
 押入れをあけると、プンと淋しい女の一人ぐらしの匂いをかいだ。たい子さんだって淋しいのだ。大きなアクビにごまかして、袖で眼をふきながら、蒲団を敷いて時ちゃんをねせつけてやる。
「貴女は林さんでしょう……」
 その青年はキラリと眼鏡を光らせて私を見た。
「僕、山本です。」
「ああそうですか、たいさんに始終聞いていました。」
 なあんだ、私がしびれの切れた足を急に投げだすと、寒いですねと云う話から、二人の気持ちはほぐれて来た。色々話をしていると、段々この青年のいい所がめについて来る。私は一生懸命あいつを愛しているんですがと云って、山本さんは涙ぐんでいる。そして、火鉢の灰をじっとかきならしてい
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