買って汽車に乗った。汽車の中には桜のマークをつけたお上りさんの人達がいっぱいあふれていた。
「桜時はこれだから厭ね……」
一つの腰掛けをやっとみつけると、三人で腰を掛ける。
「子供との汽車の旅なんて何年にもない事だわ。」
夕方、お君さんの板橋の家へ着いた。
「随分、一人でやるのは心配したけれど、一人で行きたいって云うから、あたしがやったんだよ。」
髪を蓬々させたお婆さんが寝転んで煙草を吸っていた。
「この間は失礼しました、今日は何だか一緒にかえりたくなってついて来ましたのよ。」
長屋だてのギシギシした板の間をふんで、お君さんの御亭主が出て来た。
「こんなところでよければ、いつまででもいらっしゃい。またそのうちいいところがありますよ。」と云ってくれる。
部屋の中には、若い女の着物がぬぎ散らかしてあった。
夜更け。フッと目が覚めると、
「子供なんかを駅へむかいにやる必要はないじゃありませんか、貴方が行っていらっしゃい、貴方が厭だったら私が行って来ます。」
お君さんの癇《かん》走った声がしている。やがて、土間をあける音がして、御亭主が駅へ妾さんをむかいに出て行った。
「オイお君! お前もいいかげん馬鹿だよ、なめられてやがって……」
向うのはじに寝ていたお婆さんが口ぎたなくお君さんをののしっている。ああ何と云う事だろう、何と云う家族なのだろうと思う。硝子窓の向うには春の夜霧が流れていた。一緒に眠っている人達の、思い思いの苦しみが、夜更けの部屋に満ちていて、私はたった一人の部屋がほしくなっていた。
(四月×日)
雨。終日坊やと遊ぶ。妾はお久さんと云って頬骨の高い女だった。お君さんの方がずっと柔かくて美しいひとだのに、縁と云うものは不思議なものだと思う。男ってどうしてこんななのだろう……。
「フンそんなに浜は不景気かね。」
肌をぬいで、髪に油を塗りながら、お久さんは髪をすいていた。
「何だよお前さんのその言いかたは……」
お婆さんが台所で釜を洗いながらお久さんに怒っていた。雨が降っている。うっとうしい四月の雨だ。路地のなかの家の前に、雨に濡れながら野菜売りが車を引いて通る。
神様以上の気持ちなのか、お君さんは笑って、八百屋とのんびり話をしていた。
「いまは丁度何でも美味《おい》しい頃なのね。」と云っている。
雨の中を、夕方、お久さんと御亭主とが街へ仕事に出て行った。婆さんと、子供とお君さんと私と四人で卓子を囲んで御飯をたべる。
「随分せいせいするよ、おしめりはあるし、二人は出て行ったし。」
お婆さんがいかにもせいせいしたようにこんなことを云った。
(五月×日)
新宿の以前いた家へ行ってみた。お由さんだけがのこっていて古い女達は皆いなくなってしまっていた。新らしい女が随分ふえていて、お上さんは病気で二階に臥《ふ》せっていた。――又明日から私は新宿で働くのだ。まるで蓮沼《はすぬま》に落ちこんだように、ドロドロしている私である。いやな私なり、牛込《うしごめ》の男の下宿に寄ってみる。不在。本箱の上に、お母さんからの手紙が来ていた。男が開いてみたのか、開封してあった。養父の代筆で、――あれが肺病だって言って来たが本当か、一番おそろしい病気だから用心してくれ、たった一人のお前にうつると、皆がどんなに心配するかわからない、お母さんはとても心配して、この頃は金光《こんこう》様をしんじんしている、一度かえって来てはどうか、色々話もある。――まあ! 何と云う事だろう、そんなにまでしなくても別れているのに、古里の私の両親のもとへ、あの男は自分が病気だからって云ってやったのかしら……よけいなおせっかいだと思った。宿の女中の話では、「よく女の方がいらっしてお泊りになるんですよ。」と云っている。ブトウ酒を買って来た、いままでのなごやかな気持ちが急にくらくらして来る。苦労をしあった人だのに何と云うことだろう。よくもこんなところまで辿って来たものだと思う。街を吹く五月のすがすがしい風は、秋のように身にしみるなり。
夜。
ここの子供とかるめらを焼いて遊ぶ。
*
(五月×日)
六時に起きた。
昨夜の無銭飲食の奴のことで、七時には警察へ行かなくてはならない。眠くって頭の芯《しん》がズキズキするのをこらえて、朝の街に出てゆくと、汚い鋪道《ほどう》の上に、散しの黄や赤が、露にベトベト濡れて陽に光っていた。四谷《よつや》までバスに乗る。窓|硝子《ガラス》の紫の鹿《か》の子《こ》を掛けた私の結い綿の頭がぐらぐらしていて、まるでお女郎みたいな姿だった。私はフッと噴き出してしまう。こんな女なんて……どうしてこんなに激しくゆられ、ゆすぶられても、しがみついて生きていなくてはならないのだろう! 何とコッケイなピエロの姿よ。勇ましくて美しい車掌さん! 笑わないで下さいね。なまめかしく繻子《しゅす》の黒襟《くろえり》を掛けたりしているのですが、私だって、貴女みたいにピチピチした車掌さんになろうとした事があったんですよ。貴女と同じように、植物園、三越、本願寺、動物園なんて試験を受けた事があるんです。近眼ではねられてしまったんだけれど、私は勇ましい貴女の姿がうらやましくて仕方がない。――神宮|外苑《がいえん》の方へ行く道の、一寸高い段々のある灰色の建物が警察だった。八ツ手の葉にいっぱい埃《ほこり》がかぶさったまま露がしっとりとしていて、洞穴のような留置場の前へはいって行くと、暗い刑事部屋には茶を呑んでいる男、何か書きつけている男、疲れて寝ころんでいる男、私はこんなところへまで、昨夜の無銭飲食者に会いにこなければならないのかしらと厭《いや》な気持ちだった。ここまで取りに来なければ十円近くの金は、私が帳場に立て替えなければならないし、転んでも只では起きないカフエーのからくりを考えると厭になる。結局は客と女給の一騎打ちなのだ。ああ金に引きずりまわされるのがとても胸にこたえてくる。店の女達が、たかるだけたかっておいて、勘定になると、裏から逃げ出して行った昨夜の無銭飲食者の事を思うと、わけのわからないおかしさがこみ上げて来て仕方がなかった。
「代書へ行って届書をかいて来い、アーン!」
あぶくどもメ! 昨夜の無銭飲食者が、ここではすばらしい英雄にさえ思える。
代書屋に行って書いてもらったのが一時間あまりもかかった。茶が出たり塩せんべいが出たり、金を払うだんになると、二枚並べた塩せんべいの代金まではいっている。全く驚いてしまった。届書を渡して、引受人のような人から九円なにがしかをもらって外に出ると、もうお昼である。規律とか規則とかと云うものに、私はつばきを引っかけてけいべつをしてやりたくなった。
帰って帳場に金を渡して二階へ上ると、皆はおきて蒲団をたたんでいる処だった。掃除をすっぽかして横になる。五月の雲が真綿のように白く伸びて行くのに、私は私の魂を遠くにフッ飛ばして、棒のように石のように私は横になって目をとじているのだ。悲しや、おいたわしや、お芙美さん、一ツ手拍子そろえて歌でも唄いましょう。
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陸の果てには海がある。
白帆がゆくよ。
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(五月×日)
時ちゃんが、私に自転車の乗りかたを教えてくれると云うので、掃除が済むと、店の自転車を借りて、遊廓《ゆうかく》の前の広い道へ出て行った。朝の陽をいっぱい浴びて、並んだ女郎屋の二階のてすりには、蒲団の行列、下の写真棚には、お葬式のビラのような初店の女の名前を書いた白い紙がビラビラ風に吹かれていた。朝帰りの男の姿が、まるで雨の日のこうもりがさのようだと、時ちゃんは冷笑しながら、勇ましく大通りで自転車を乗りまわしている。桃割れにゆった女が自転車で廓《くるわ》の道を流しているので、男も女も立ちどまっては見て行くなり。
「さあ、ゆみちゃんお乗りよ、後から押してやるから。」
馬鹿げた朗かさで、ドン・キホーテの真似をする事も面白い。二三回乗っているうちにペタルが足について来て、するするとハンドルでかじ[#「かじ」に傍点]が取れるようになった。
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キング・オブを十杯呑ませてくれたら
私は貴方に接吻を一ツ投げましょう
おお哀れな給仕女よ
青い窓の外は雨の切子《きりこ》硝子
ランタンの灯の下で
みんな酒になってしまった
カクメイとは北方に吹く風か!
酒はぶちまけてしまったんです。
卓子の酒の上に真紅《まっか》な口を開いて
火を吐いたのです
青いエプロンで舞いましょうか
金婚式、それともキャラバン
今晩の舞踏曲は……
さあまだあと三杯もある
しっかりしているかって
ええ大丈夫よ
私はお悧巧《りこう》な人なのに
本当にお悧巧なひとなのに
私は私の気持ちを
つまらない豚のような男達へ
おし気もなく切り花のように
ふりまいているんです
ああカクメイとは北方に吹く風か――
[#ここで字下げ終わり]
さてさてあぶない生胆《いきぎも》取り、ああ何もかも差しあげてしまいますから、二日でも三日でも誰か私をゆっくり眠らせて下さい。私の体から、何でも持って行って下さい。私は泥のように眠りたい。石鹸のようにとけてなくなってしまって、下水の水に、酒もビールも、ジンもウイスキーも、私の胃袋はマッチの代用です。さあ、私の体が入用だったらタダで差し上げましょう。なまじっかタダでプレゼントした方があとくされがなくてせいせいするでしょう。酔っぱらって椅子と一緒に転んだ私を、時ちゃんは馬のように引きおこしてくれた。そうして耳に口をつけて言った事は、
「新聞を上からかぶせとくから、少しつっぷして眠んなさい、酔っぱらって仕様がないじゃないの……」
私の蒲団は新聞で沢山なのですよ、私は蛆虫《うじむし》のような女ですからね、酔いだってさめてしまえばもとのもくあみ、一日がずるずると手から抜けて行くのですもの、早く私のカクメイでもおこさなくちゃなりません。
(六月×日)
太宗寺で、女給達の健康診断がある日だ。雨の中を、お由さんと時ちゃんと三人で行った。古風な寺の廊下に、紅紫とりどりの疲れた女達が、背景と二重写しみたいに、そぐわないモダンさで群れている。一寸《ちょっと》した屏風《びょうぶ》がたててあるのだけれども、おえんま様も映画の赤い旗もみんなまる見えだ。上半身を晒《さら》して、店《たな》ざらしのお役人の前に、私達は口をあけたり胸を押されたりしている。匂いまで女給になりきってしまった私は、いまさら自分を振りかえって見返してみようにもみんな遠くに飛んでしまっている。お由さんは肺が悪いので、診てもらうのを厭がっていた。時ちゃんを待ちながら、寺の庭を見ているとねむの花が桃色に咲いて、旅の田舎の思い出がふっと浮んできた。
夜、鼠花火を買って来て燃やす。
チップ一円二十銭也。
(六月×日)
昼、浴衣を一反買いたいと思って街に出てみると、肩の薄くなった男に出会う。争って別れた二人だけれども、偶然にこんなところで会うと、二人共|沈黙《だま》って笑ってしまう。あのひとは鰻《うなぎ》がたべたいと云う。二人で鰻丼《うなどん》をたべにはいる。何か心楽し。浴衣の金を皆もたせてやる。病人はいとしや。――母より小包み来る。私が鼻が悪いと云ってやったので、ガラガラに乾《ほ》してある煎《せん》じ薬と足袋と絞り木綿の腰巻を送って来た。カフエーに勤めているなんて云ってやろうものなら、どんなにか案じるお母さん、私は大きいお家の帳場をしていると嘘の手紙を書いて出した。
夜。
お君さんが私の処へたずねて来た。これから質屋に行くのだと云って大きい風呂敷包みを持っていた。
「こんな遠い処の質屋まで来るの?」
「前からのところなのよ。板橋の近所って、とても貸さないのよ……」
相変らず一人で苦労をしているらしいお君さんに同情するなり。
「ね、よかったらお蕎麦《そば》でも食べて行かない、おごるわよ。」
「ううんいいのよ、一寸人が待っているから、又ね。」
「じゃア質屋まで一緒に行く、いいで
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