ズルカの、ピチカットの沢山はいった嵐の音が美しく流れてくる。大陸的なそのヴァイオリンの音を聞いていると、明日のない自分ながら、生きなくては嘘だと云う気持ちが湧いて来るのだった。
(六月×日)
おとつい行った株屋から速達が来た。×日より御出社を乞う。私は胸がドキドキした。今日から株屋の店員さんだ。私は目の前が明るくなったような気がした。パラソルを二十銭で屑屋《くずや》に売った。
日立商会、これが私のこれからお勤めするところなり。隣が両替屋、前が千代田橋、横が鶏肉《とりにく》屋、橋の向うが煙草屋、電車から降りると、私は色んなものが豊かな気持ちで目についた。荻谷文子、これが私の相棒で、事務机に初めて差しむかいになると、二人共笑ってしまった。
「御縁がありましたのねイ。」
「ええ本当に、どうぞよろしくお願いします。」
この人は袴《はかま》をはいて来ているが、私も袴をはかなくちゃいけないのかしら……。二人の仕事はおトクイ様に案内状を出す事と、カンタンな玉づけをならって行く事だった。相棒の彼女は、岐阜の生まれで小学校の教師をしていたとかで、ネーと云う言葉が非常に強い。「そうしてねイー」二人の小僧が真似をしては笑う。お昼の弁当も美味《うま》し、鮭《さけ》のパン粉で揚げたのや、いんげんの青いの、ずいきのひたし、丹塗《にぬ》りの箱を両手にかかえて、私は遠いお母さんの事を思い出していた。
ニイカイ[#「ニイカイ」に傍点] サンヤリ!
自転車で走って小僧がかえって来ると、店の人達は忙がしそうにそれを黒板に書きつけたり電話をしている。
「奥のお客さんにお茶を一ツあげて下さい。」
重役らしい人が私の肩を叩いて奥を指差す。茶を持ってドアをあけると、黒眼鏡をかけた色の白い女のひとが、寒暖計の表のような紙に、赤鉛筆でしるしをつけていた。
「オヤ! これはありがとう、まあ、ここには女の人もいるのね、暑いでしょう……」
黒ずくめの恰好をした女のひとは、帯の間から五十銭銀貨二枚を出すと、氷でも召し上れと云って、私の掌にのせてくれた。
こんなお金を月給以外にもらっていいのかしら……前の重役らしい人に聞くと、くれるものはもらっておきなさいと云ってくれた。社の帰り、橋の上からまだ高い陽をながめて、こんなに楽な勤めならば勉強も出来ると思った。
「貴女はまだ一人なの?」
袴をはいて靴を鳴らしている彼女は、気軽そうに口笛を吹いて私にたずねた。
「私二十八なのよ、三十五円くらいじゃ食えないわね。」
私は黙って笑っていた。
(七月×日)
大分仕事も馴れた。朝の出勤はことに楽しい。電車に乗っていると、勤めの女達が、セルロイドの円い輪のついた手垂《てさ》げ袋を持っている。月給をもらったら私も買いたいものだ。階下の小母さんはこの頃少し機嫌よし。――社へ行くと、まだ相棒さんは見えなくて、若い重役の相良《さがら》さんが一人で、二階の広い重役室で新聞を読んでいた。
「お早うございます。」
「ヤア!」
事務服に着かえながら、ペンやインキを机から出していると、
「ここの扇風器をかけて。」と呼んでいる。
私は屑箱を台にすると、高いかもい[#「かもい」に傍点]のスイッチをひねった。白い部屋の中が泡立つような扇風器の音、「アラ?」私は相良さんの両手の中にかかえられていた。心に何の用意もない私の顔に大きい男の息がかかって来ると、私は両足で扇風器を突き飛ばしてやった。
「アッハハハハハいまのはじょうだんだよ。」
私は梯子段を飛びおりると、薄暗いトイレットの中でジャアジャア水を出した。頬を強く押した男の唇が、まだ固くくっついているようで、私は鏡を見ることがいやらしかった。
「いまのはじょうだんだよ……」
何度顔を洗ってもこの言葉がこびりついている。
「怒った! 馬鹿だね君は……」
ジャアジャア水を出している私を見て、降りて来た相良さんは笑って通り過ぎた。
昼。
黒い眼鏡の夫人と一緒に場の中へ行ってみる。高いベランダのようなところから拍子木が鳴ると、若い背ビロの男が、両手を拡げてパンパン手を叩いている。「買った! 買った!」ベランダの下には、芋をもむような人の頭、夫人は黒眼鏡をズリ上げながら、メモに何か書きつける。
夫人を自動車のあるところまでおくると、また、小さなのし[#「のし」に傍点]袋に一円札のはいったのをもらう。何だかこんな幸運もまたズルリと抜けてゆきそうだ。帰ると、合百師《ごうひゃくし》達や小僧が丁半でアミダを引いていた。
「ねイ林さん! 私達もしない? 面白そうよ。」
茶碗を伏せては、サイコロを振って、皆で小銭を出しあっていた。
「おい姉さん! はいんなよ……」
「…………」
「はいるといいものを見せてやるぜ。生れて初めてだわって、嬉しがる奴を見せてやるがどうだい。」
羽二重のハッピをゾロリと着ながした一人の合百師が、私の手からペンを取って向うへ行ってしまった。
「アラ! そんないいもの……じゃアはいるわ、お金そんなにないから少しね。」
「ああ少しだよ、皆でおいなりさん買うんだってさ……」
「じゃ見せて!」
相棒はペンを捨てて皆のそばへ行くと、大きいカンセイがおきる。
「さあ! 林さんいらっしゃいよ。」
私も声につられて店の間へ行って見る。ハッピの裏いっぱいに描いた真赤な絵に私は両手で顔をおおうた。
「意気地がねえなア……」
皆は逃げ出している私の後から笑っていた。
夜。
ひとりで、新宿の街を歩いた。
(七月×日)
「ああもしもし××の家《や》ですか? こちらは須崎ですがねイ、今日は一寸行かれませんから、明日の晩いらっしゃるそうです。××さんにそう云って下さいねイ。」
又、重役が、どっか芸者屋へ電話をかけさせているのだろう、荻谷さんのねイがビンビンひびいている。
「ねイ! 林さん、今晩須崎さんがねイ、浅草をおごってくれるんですって……」
私達は事務を早目に切りあげると、小僧一人を連れて、須崎と荻谷と私と四人で自動車に乗った。この須崎と云う男は上州の地主で、古風な白い浜縮緬《はまちりめん》の帯を腰いっぱいぐるぐる巻いて、豚のように肥った男だった。
「ちんやにでも行くだっぺか!」
私も荻谷も吹き出して笑った。肉と酒、食う程に呑む程に、この豚男の自惚《うぬぼれ》話を聞いて、卓子の上は皿小鉢の行列である。私は胸の中かムンムンつかえ[#「つかえ」に傍点]そうになった。ちんやを出ると、次があらえっさっさの帝京座だ。私は頭が痛くなってしまった。赤いけだしと白いふくらっぱぎ、群集も舞台もひとかたまりになって何かワンワン唸りあっている。こんな世界をのぞいた事もない私は、妙に落ちつかなかった。小屋を出ると、ラムネとアイスクリーム屋の林立の浅草だ。上州生れのこの重役は、「ほう! お祭のようだんべえ。」とあたりをきょろきょろながめていた。
私は頭が痛いので、途中からかえらしてもらう。荻谷女史は妙に須崎氏と離れたがらなかった。
「二人で待合へでも行くつもりでしょう。」
小僧は須崎氏からもらった、電車の切符を二枚私に裂いてくれた。
「さよなら、又あした。」
家へかえると、八百屋と米屋と炭屋のつけ[#「つけ」に傍点]が来ていた。日割でもらっても少しあまるし、来月になったら国へ少し送りましょう。階下でかたくりのねったのをよばれる。床へはいったのが十一時、今夜も隣のマズルカが流れて来る。コウフンして眠れず。
*
(九月×日)
今日もまたあの雲だ。
むくむくと湧き上る雲の流れを私は昼の蚊帳の中から眺めていた。今日こそ十二社《じゅうにそう》に歩いて行こう――そうしてお父さんやお母さんの様子を見てこなくちゃあ……私は隣の信玄袋に凭れている大学生に声を掛けた。
「新宿まで行くんですが、大丈夫でしょうかね。」
「まだ電車も自動車もありませんよ。」
「勿論《もちろん》歩いて行くんですよ。」
この青年は沈黙って無気味な暗い雲を見ていた。
「貴方はいつまで野宿をなさるおつもりですか?」
「さあ、この広場の人達がタイキャクするまでいますよ、僕は東京が原始にかえったようで、とても面白いんですよ。」
この生齧《なまかじ》りの哲学者メ。
「御両親のところで、当分落ちつくんですか……」
「私の両親なんて、私と同様に貧乏で間借りですから、長くは居りませんよ。十二社の方は焼けてやしないでしょうかね。」
「さあ、郊外は朝鮮人が大変だそうですね。」
「でも行って来ましょう。」
「そうですか、水道橋までおくってあげましょうか。」
青年は土に突きさした洋傘を取って、クルクルまわしながら雲の間から霧のように降りて来る灰をはらった。私は四畳半の蚊帳をたたむと、崩れかけた下宿へ走った。宿の人達は、みんな荷物を片づけていた。
「林さん大丈夫ですか、一人で……」
皆が心配してくれるのを振りきって、私は木綿の風呂敷を一枚持って、時々小さい地震のしている道へ出て行った。根津の電車通りはみみずのように野宿の群がつらなっていた。青年は真黒に群れた人波を分けて、くるくる黒い洋傘をまわして歩いている。
私は下宿に昨夜間代を払わなかった事を何だかキセキのように考えている。お天陽《てんとう》様相手に商売をしているお父さん達の事を考えると、この三十円ばかりの月給も、おろそかにはつかえない。途中一升一円の米を二升買った。外に朝日を五つ求める。
干しうどんの屑を五十銭買った。母達がどんなに喜んでくれるだろうと思うなり。じりじりした暑さの中に、日傘のない私は長い青年の影をふんで歩いた。
「よくもこんなに焼けたもんですね。」
私は二升の米を背負って歩くので、はつか鼠くさい体臭がムンムンして厭《いや》な気持ちだった。
「すいとんでも食べましょうか。」
「私おそくなるから止《よ》しますわ。」
青年は長い事立ち止って汗をふいていたが、洋傘をくるくるまわすとそれを私に突き出して云った。
「これで五十銭貸して下さいませんか。」
私はお伽話《とぎばなし》的なこの青年の行動に好ましい微笑を送った。そして気持ちよく桃色の五十銭札を二枚出して青年の手にのせてやった。
「貴方はお腹がすいてたんですね……」
「ハッハッ……」青年はそうだと云ってほがらかに哄笑《こうしょう》していた。
「地震って素敵だな!」
十二社までおくってあげると云う青年を無理に断って、私は一人で電車道を歩いた。あんなに美しかった女性群が、たった二三日のうちに、みんな灰っぽくなってしまって、桃色の蹴出《けだ》しなんかを出して裸足《はだし》で歩いているのだ。
十二社についた時は日暮れだった。本郷からここまで四里はあるだろう。私は棒のようにつっぱった足を、父達の間借りの家へ運んだ。
「まあ入れ違いですよ。今日引っ越していらっしたんですよ。」
「まあ、こんな騒ぎにですか……」
「いいえ私達が、ここをたたんで帰国しますから。」
私は呆然としてしまった。番地も何も聞いておかなかったと云う関西者らしい薄情さを持った髪のうすいこの女を憎らしく思った。私は堤の上の水道のそばに、米の風呂敷を投げるようにおろすと、そこへごろりと横になった。涙がにじんできて仕方がない。遠くつづいた堤のうまごやしの花は、兵隊のように皆地べたにしゃがんでいる。
星が光りだした。野宿をするべく心をきめた私は、なるべく人の多いところの方へ堤を降りて行くと、とっつきの歪んだ床屋の前にポプラで囲まれた広場があった。そこには、二三の小家族が群れていた。私がそこへ行くと、「本郷から、大変でしたね……」と、人のいい床屋のお上さんは店からアンペラを持って来て、私の為《た》めに寝床をつくってくれたりした。高いポプラがゆっさゆっさ風にそよいでいる。
「これで雨にでも降られたら、散々ですよ。」
夜警に出かけると云う、年とった御亭主が鉢巻をしながら空を見てつぶやいていた。
(九月×日)
朝。
久し振りに鏡を見てみた。古ぼけた床屋さんの鏡の中の私は、まるで山出しの女中
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