いを感じた。男と女の、あんなにも血も肉も焼きつくような約束が、こんなにたあいもなく崩れて行くものだろうかと思う。私は菓子折をそこへ置くと、蜜柑山に照りかえった黄いろい陽を浴びて村道に出た。あの男は、かつてあの口から、こんなことを云ったことがある。
「お前は、長い間、苦労ばかりして来たのでよく人をうたがうけれども、子供になった気持ちで俺を信じておいで……」
一月の青く寒く光っている海辺に出ると、私はぼんやり沖を見ていた。
「婆さんが、こんなものをもらう理由はないから、返して来いと云うんだよ。」
私に追いすがった男の姿、お話にならないオドオドした姿だった。
「もらう理由がない? そう、じゃ海へでもほかして下さい、出来なければ私がします。」
男から菓子折を引き取ると、私はせいいっぱいの力をこめてそれを海へ投げ捨てた。
「とても、あの人達のガンコさには勝てないし、家を出るにしても、田舎でこそ知人の世話で仕事があるんだが、東京なんかじゃ、大学出なんか食えないんだからね。」
私は沈黙って泣いていた。東京での一年間、私は働いてこの男に心配かけないでいた心づかいを淋しく思い出した。
「何でもいいじゃありませんか、怒って私が菓子折を海へ投げたからって、貴方に家を出て下さいなんて云うんじゃありませんもの。私はそのうち又ひとりで東京へ帰ります。」
砂浜の汚い藻《も》の上をふんで歩いていると、男も犬のように何時《いつ》までも沈黙って私について来た。
「おくってなんかくれなくったっていいんですよ。そんな目先きだけの優しさなんてよして下さい。」
町の入口で男に別れると、体中を冷たい風が吹き荒れるような気がした。会ったらあれも言おう、これも言おうと思っていた気持ちが、もろく叩きこわされている。東京で描いていたイメージイが愚にもつかなかったと思えて、私はシャンと首をあげると、灰色に蜿蜒《えんえん》と続いた山壁を見上げた。
造船所の入口には店を出したお養父さんとお母さんが、大工のお上さんと、もう店をしまいかけていた。
「オイ、この足袋は紙でこしらえたのかね、はいたと思ったらじき破れたよ。」
薬で黒く色染めしてあるので、はくと[#「はくと」に傍点]すぐピリッと破れるらしい。
「おばさん! 私はもう帰りますよ。皆おこって来そうで、おそろしいもん……」大工のお上さんは、再製品のその繻子足袋を一足七十銭に売っているんだからとても押が太かった。大工の上さんが一船先へ帰ると云うので、私も連れになって、一緒に船着場へ行く。
「さあ、船を出しますで!」
船長さんが鈴を鳴らすと、利久下駄をカラカラいわせていた大工の上さんは、桟橋と船に渡した渡し子をわたるとき、まだ半分も残っていた足袋の風呂敷包みを、コロリと海の中へ落してしまった。
「あんまり高いこと売りつけたんで、罰が当ったんだでな。」
上さんはヤレヤレと云いながら、棒の先で風呂敷包みをすくい取っていた。
皆、何もかも過ぎてしまう。船が私の通った砂浜の沖に出ると、灯のついたようなレモンの山が、暮色にかすんでしまっていた。三カ月も心だのみに空想を描いていた私だのに、海の上の潮風にさからって、いつまでも私は甲板に出ていた。
(一月×日)
「お前は考えが少しフラフラしていかん!」
お養父さんは、東京行きの信玄袋をこしらえている私の後から言った。
「でもなお父さん、こんなところへおっても仕様のない事じゃし、いずれわし達も東京へ行くんだから、早くやっても、同じことじゃがな。」
「わし達と一緒に行くのならじゃが、一人ではあぶないけんのう。」
「それに、お前は無方針で何でもやらかすから。」
御もっとも様でございます。方針なんて真面目くさくたてるだけでも信じられないじゃありませんか。方針なんてたてようもない今の私の気持ちである。大工のお上さんがバナナを買ってくれた。「汽車の中で弁当代りにたべなさいよ。」停車場の黒いさく[#「さく」に傍点]に凭《もた》れて母は涙をふいていた。ああいいお養父さん! いいお母さん! 私はすばらしい成金になる空想をした。
「お母さん! あんたは、世間だの義理だの人情だのなんてよく云い云いしているけれども、世間だの義理だの人情だのが、どれだけ私達を助けてくれたと云うのです? 私達親子三人の世界なんてどこにもないんだからナニクソと思ってやって下さい。もうあの男ともさっぱり別れて来たんですからね。」
「親子三人が一緒に住めん云うてのう……」
「私は働いて、うんとお金持ちになりますよ、人間はおそろしく信じられないから、私は私一人でうんと身を粉にして働きますよ。」
いつまでも私の心から消えないお母さん、私は東京で何かにありついたらお母さんに電報でも打ってよろこばせてやりたいと思った。――段々陽のさしそめて来る港町をつっきって汽車は山波《さんば》の磯べづたいに走っている。私の思い出から、たんぽぽの綿毛のように色々なものが海の上に飛んで行った。海の上には別れたひとの大きな姿が虹《にじ》のように浮んでいた。
*
(六月×日)
烈々とした太陽が、雲を裂き空を裂き光っている。帯の間にしまった二通の履歴書は、ぐっしょり汗ばんでしまった。暑い。新富河岸《しんとみがし》の橋を曲線《カーヴ》しながら、電車は新富座に突きささりそうに朽ちた木橋を渡って行く。坂本町で降りると、汚い公園が目の前にあった。金でもあれば氷のいっぱいも呑んで行くのだけれど、ああこのジトジトした汗の体臭はけいべつされるに違いない。石突きの長いパラソルの柄に頬をもたせて、公園の汚れたベンチに私は涼風をもとめてすずんでいた。
「オイ! 姉さん、五銭ほど俺にくんないかね……」
驚いて振り返って見ると、垢《あか》もぶれな手拭を首に巻いた浮浪者が私の後に立っていた。
「五銭? 私二銭しか持たないんですよ、電車切符一枚と、それきり……」
「じゃア二銭おくれよ。」
三十も過ぎているだろうこのガンジョウな男が、汗ばんだ二銭を私からもらうと、共同便所の方へ行ってしまった。あの人に二銭あげてあの人はあんなに喜んで行ったんだから、私にもきっといい事があるに違いない。玩具《おもちゃ》箱をひっくり返したような公園の中には、樹とおんなじように埃をかぶった人間が、あっちにもこっちにもうろうろしている。
茅場町《かやばちょう》の交叉点《こうさてん》から一寸右へはいったところに、イワイと云う株屋がみつかった。薄暗い鉄格子のはまった事務室には遊び人風の男や、忙がし気に走りまわっている小僧やまるで人種の違ったところへ来た感じだった。
「月給は弁当つき三十五円でしてね、朝は九時から、ひけ[#「ひけ」に傍点]は四時です。ところで玉《ぎょく》づけが出来ますかね。」
「玉づけって何です?」
「簿記ですよ。」
「少しぐらいは出来ようと思います。」
まあ、月給が弁当つき三十五円なんて! 何とすばらしい虹の世界だろう――。三十五円、これだけあれば、私は親孝行も出来る。
お母さんや!
お母さんや!
あなたに十円位も送れたらあんたは娘の出世に胸がはちきれて、ドキドキするでしょうね。
「ええ玉づけだって、何だってやります。」
「じゃアやって見て下さい、そして二三日してからきめましょう――」
白い絹のワイシャツを、帆のように扇風器の風でふくらましたこの頭の禿《は》げた男は、私を事務机の前に連れて行ってくれた。大きな、まるで岩のような事務机を前にすると、三十五円の憂鬱が身にしみて、玉づけだって何だって出来ますと云った事が、おそろしく思えてきた。小僧が持って来た大きい西洋綴りの帳面を開くと、それは複式簿記で、私の一寸知っている簿記とは、はるかに縁遠いものだった。目がくらみそうに汗が出る。生れてかつて見た事もないような、長い数字の行列、数字を毎日書き込んだり、珠算を入れるとなると、私は一日で完全に、キチガイになってしまうだろう。でも私は珠算をいかにもうまそうにパチパチ弾《はじ》きながら子供の頃、算術で丙ばかりもらっていた事を思い出して、胸が冷たくなるような気がした。これだけの長い数字が、どれだけ我々の人生に必要なのだろうか、ふっと頭を上げると小僧が氷あずきをおやつに持って来てくれている。私は浅ましくもうれし涙がこぼれそうだった。氷と数字、赤や青の直線、簿記棒で頭をコツコツやりながら、でたらめな数字を書き込んだのが恐ろしくなっている。
帰ってみたら電報が来ていた。
シュッシャニオヨバズ。
えへだ! あんなに大きい数字を毎日毎日加えてゆかなくちゃならない世界なんて、こっちから行きたくもありませんよだ。成金になりたい理想も、あんな大きな数字でへこたれるようでは一生駄目らしい。
(六月×日)
二階から見ると、赤いカンナの花が隣の庭に咲いている。
昨夜、何かわけのわからない悲しさで、転々ところがりながら泣いた私の眼に、白い雲がとてもきれいだった。隣の庭のカンナの花を見ていると、昨夜の悲しみが又|湧《わ》いて来て、熱い涙が流れる。いまさら考えて見るけれど、生活らしいことも、恋人らしい好きなひとも、勉強らしい勉強も出来なかった自分のふがいなさが、凪《なぎ》の日の舟のように侘《わび》しくなってくる。こんどは、とても好きなひと[#「ひと」に傍点]が出来たら、眼をつぶってすぐ死んでしまいましょう。こんど、生活が楽になりかけたら、幸福がズルリと逃げないうちにすぐ死んでしまいましょう。
カンナの花の美しさは、瞬間だけの美しさだが、ああうらやましいお身分だよだ。またのよには、こんな赤いカンナの花にでも生れかわって来ましょう。昼から、千代田橋ぎわの株屋へ行ってみる。
――[#ここから横組み]1 2 3 4 5 6 7 8 9 10[#ここで横組み終わり]――
これだけの数字を何遍も書かせられると、私は大勢の応募者達と戸外へ出ていった。女事務員入用とあったけれど、又、簿記をつけさせるのかしら、でも、沢山の応募者達を見ると、当分私は風の子供だ。
明石《あかし》の女もメリンスの女も、一歩外に出ると、睨《にら》みあいを捨ててしまっている。
「どちらへお帰りですの?」
私はこの魚群のような女達に別れて、銀座まで歩いてみた。銀座を歩いていると、なぜか質屋へ行くことを考えている。とある陳列箱の中の小さな水族館では、茎のような細い鮎《あゆ》が、何尾も泳いでいた。銀座の鋪道《ほどう》が河になったら面白いだろうと思う。銀座の家並が山になったらいいな、そしてその山の上に雪が光っていたらどんなにいいだろう……。赤|煉瓦《れんが》の鋪道の片隅に、二銭のコマを売っている汚れたお爺さんがいた。人間って、こんな姿をしてまでも生きていなくてはならないのかしら、宿命とか運命なんて、あれは狐つきの云う事でしょうね、お爺さん! ナポレオンのような戦術家になって、そんな二銭のコマで停滞する事は止《や》めて下さい。コマ売りの老人の同情を強いる眼を見ていると、妙に嘲笑《ちょうしょう》してやりたくなる。あんなものと私と同族だなんて、ああ汚れたものと美しいものとけじめのつかない錯覚だらけのガタガタの銀座よ……家へかえったら当分履歴書はお休みだ。
[#ここから2字下げ]
空と風と
河と樹と
みんな秋の種子
流れて 飛んで
[#ここで字下げ終わり]
夜。
電気を消して畳に寝転んでいると、雲のない夜の空に大きい月が出ている。歪《ゆが》んだ月に、指を円めて覗《のぞ》き眼鏡していると、黒子《ほくろ》のようなお月さん! どこかで氷を削る音と風鈴が聞える。
「こんなに私はまだ青春があるのです。情熱があるんですよお月さん!」両手を上げて何か抱き締めてみたい侘しさ、私は月に光った自分の裸の肩をこの時程美しく感じた事はない。壁に凭れると男の匂いがする。ズシンと体をぶっつけながら、何か口惜《くや》しさで、体中の血が鳴るように聞える。だが呆然《ぼんやり》と眼を開くと、血の鳴る音がすっと消えてお隣でやっている蓄音器のマ
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