私を苦しくしているのだ。――引っ越さなくてはとてもたまらないと思う。私は机に伏さったまま郊外のさわやかな夏景色を頭に描いていた。雨の情熱はいっそう高まって来て、苦しくて仕方がない。「僕を愛して下さい。だまって僕を愛して下さい!」「だからだまって、私も愛しているではありませんか……」せめて手を握る事によってこの青年の胸が癒《いや》されるならば……。私はもう男に迷うことは恐ろしいのだ。貞操のない私の体だけども、まだどこかに私の一生を託す男が出てこないとも限らないもの。でもこの人は新鮮な血の匂いを持っている。厚い胸、青い眉、太陽のような眼。ああ私は激流のような激しさで泣いているのだ。

(六月×日)
 淋しく候。くだらなく候。金が欲しく候。北海道あたりの、アカシヤの香る並樹道を一人できままに歩いてみたいものなり。
「もう起きましたか……」
 珍らしく五十里さんの声が障子の外でしている。
「ええ起きていますよ。」
 日曜なので五十里さんと静栄さんと三人で久しぶりに、吉祥寺《きちじょうじ》の宮崎光男さんのアメチョコハウスに遊びに行ってみる。夕方ポーチで犬と遊んでいたら、上野山と云う洋画を描く人が
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