達なのである。あああの十四円は九州へとどいたかしら。東京が厭《いや》になった。早くお父さんが金持ちになってくれるといい。九州もいいな、四国もいいな。夜更け、母が鉛筆をなめなめお父さんにたより[#「たより」に傍点]を書いているのを見て、誰かこんな体でも買ってくれるような人はないかと思ったりした。
(五月×日)
朝起きたらもう下駄が洗ってあった。
いとしいお母さん! 大久保百人町の派出婦会に行ってみる。中年の女の人が二人、店の間で縫いものをしていた。人がたりなかったのであろうか、そこの主人は、添書のようなものと地図を私にくれた。行く先の私の仕事は、薬学生の助手だと云うことである。――道を歩いている時が、私は一番愉しい。五月の埃《ほこり》をあびて、新宿の陸橋をわたって、市電に乗ると、街の風景が、まことに天下タイヘイ[#「タイヘイ」に傍点]にござ候と旗をたてているように見えた。この街を見ていると苦しい事件なんか何もないようだ。買いたいものが何でもぶらさがっている。私は桃割れの髪をかしげて電車のガラス窓で直した。本村町《ほんむらちょう》で降りると、邸町になった路地の奥にそのうちがあった。
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