なべ》でもつつきたいと云う。
「あなた、どこか美味いところ知ってらっしゃる?」
 秋声氏は子供のように目をしばしばさせて、そうねとおっしゃったきりだった。やがて、私は、お二人に別れた。二人に別れて、やがて小糠雨《こぬかあめ》を羽織に浴びながら、団子坂の文房具屋で原稿用紙を一|帖《じょう》買ってかえる。――八銭也――体中の汚れた息を吐き出しながら、まるで尾を振る犬みたいな女だったと、私は私を大声あげて嘲笑《あざわら》ってやりたかった。帰ったら部屋の火鉢に、切り炭が弾《はじ》けていて、カレーの匂いがぐつぐつ泡《あわ》をふいていた。見知らない赤いメリンスの風呂敷包みが部屋の隅に転がっていて、新らしい蛇の目の傘がしっとりと濡れたまま縁側に立てかけてあった。隣室では又今夜も秋刀魚《さんま》だ。十ちゃんの羽織を壁にかけていると、十ちゃんが笑いながら梯子《はしご》段を上って来て、「お芳ちゃんがたずねて来てね、二人でいま風呂へ行ったのよ。」と云った。皆カフエーの友達である。この女はどこか、英《はなぶさ》百合子に似ていて、肌の美しい女だった。「十ちゃんも出てしまうし、面白くないから出て来ちゃったわ、二日
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