実なんかと云うものは爪の垢《あか》ほどもありやしないんだから……」
「カフエーのお客でなくったって、いま時、物々交換でなくちゃ……この世の中はせち辛いのよ。」
「あんなところで働くのは、体より神経の方が先に参っちゃうわね。」
 十子は、帯を昆布《こぶ》巻きのようにクルクル巻くと、それを枕のかわりにして、私の裾に足を延ばして蒲団へもぐり込んで来た。「ああ極楽! 極楽!」すべすべと柔かい十子のふくらはぎに私の足がさわると、彼女は込み上げて来る子供の様な笑い声で、何時《いつ》までもおかしそうに笑っていた。
 寒い夜気に当って、硝子《ガラス》窓が音を立てている。家を持たない女が、寝床を持たない女が、可愛らしい女が、安心して裾にさしあって寝ているのだ。私はたまらなくなって、飛びおきるなり火鉢にドンドン新聞をまるめて焚《た》いた。
「どう? 少しは暖かい?」
「大丈夫よ……」
 十子は蒲団を頬までずり上げると、静かに息を殺して泣き出していた。
 午前一時。二人で戸外へ出て支那そばを食べた。朝から何もたべていなかった私は、その支那そばがみんな火になってしまうようなおいしい気持ちがした。炬燵がなくても
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