た。
「宿の小母さんが迎いに来て、ビックリしちゃった。」
「…………」
私は子供のように涙が溢《あふ》れた。何の涙でもない。白々とした考えのない涙が、あとからあとからあふれて、沈黙《だま》ってしきいの所に立って長いこと泣いていた。
「ここへ来るまでは、すがれたらすがってみようと思って来たけれど、宿の小母さんの話では、奥さんも子供もあるって聞きましたよ。それに、町のストライキを見たら、どうしても、貴方に会って、はっきりとすがらなくてはいけないと思いました。」
沈黙っている二人の耳に、まだ喚声が遠く聞えて来る。
「今晩町の芝居小屋で、職工達の演説があるから、一寸覗いてみなくては……」男は、自分の腕時計を床の上に投げると、そそくさと町へ出てしまった。私は、ぼんやりと部屋で、しゃっくりを続けながら、高価な金色の腕時計をそっと自分の腕にはめてみた。涙があふれた。東京で苦労した事や、裸で門を壊していた昼間の職工達の事が、グルグルしていて、時計の白い腹を見ていると目が廻りそうだった。
(八月×日)
宿の娘と連れだって浜を歩いた。今日でここへ来て一週間にもなる。
「くよくよおしんさんな。」私は
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