いた。
*
(二月×日)
ああ何もかも犬に食われてしまえである。寝転んで鏡を見ていると、歪《ゆが》んだ顔が少女のように見えてきて、体中が妙に熱っぽくなって来る。
こんなに髪をくしゃくしゃにして、ガランスのかった古い花模様の蒲団の中から乗り出していると、私の胸が夏の海のように泡立《あわだ》って来る。汗っぽい顔を、畳にべったり押しつけてみたり、むき出しの足を鏡に写して見たり、私は打ちつけるような激しい情熱を感じると、蒲団を蹴って窓を開けた。――思いまわせばみな切な、貧しきもの、世に疎《うと》きもの、哀れなるもの、ひもじきもの、乏しく、寒く、物足らぬ、はかなく、味気なく、よりどころなく、頼みなきもの、捉《とら》えがたく、あらわしがたく、口にしがたく、忘れ易く、常なく、かよわなるもの、詮《せん》ずれば仏ならねどこの世は寂し。――チョコレート色の、アトリエの煙を見ていると、白秋のこんな詩をふっと思い出すなり、まことに頼みがいなきは人の世かな。三階の窓から見降ろしていると、川端画塾のモデル女の裸がカーテンの隙間から見える。青ペンキのはげた校舎裏の土俵の日溜《ひだま》りでは、
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