い。酉《とり》年はどうもわしはすかん。」
私は男と初めて東京へ行った一年あまりの生活の事を思い出した。
晩春五月のことだった。散歩に行った雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》の墓地で、何度も何度もお腹《なか》をぶっつけては泣いた私の姿を思い出すなり。梨のつぶてのように、私一人を東京においてけぼりにすると、いいかげんな音信しかよこさない男だった。あんなひとの子供を産んじゃア困ると思った私は、何もかもが旅空でおそろしくなって、私は走って行っては墓石に腹をドシンドシンぶっつけていたのだ。男の手紙には、アメリカから帰って来た姉さん夫婦がとてもガンコに反対するのだと云っている。家を出てでも私と一緒になると云っておいて、卒業あと一年間の大学生活を私と一緒にあの雑司ヶ谷でおくったひとだのに、卒業すると自分一人でかえって行ってしまった。あんなに固く信じあっていたのに、お養父《とう》さんもお母さんも忘れてこんなに働いていたのに、私は浅い若い恋の日なんて、うたかたの泡《あわ》よりはかないものだと思った。
「二三日したら、わしも商売に行くけん、お前も一度行って会うて見るとええ。」
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