んと人間の力のちっぽけな事よと思うなり。遠くから、犬の吠える声がする。かすり[#「かすり」に傍点]の半纏《はんてん》を着た娘が、一匹の黒犬を連れて、歌いながら急いで来た。波が大きくしぶきすると犬はおびえたようにキリッと首をもちあげて海へ向って吠えた。遠雷のような海の音と、黒犬の唸《うな》り声は何かこわい感じだ。
「この辺に宿屋はありませんか?」
 この砂浜にたった一人の人間であるこの可憐《かれん》な少女に私は呼びかけてみた。
「私のうちは宿屋ではないけれど、よかったらお泊りなさい。」
 何の不安もなく、その娘は私を案内してくれた。うすむらさきのなぎなたほおずきを、器用に鳴らしながら、娘は私を連れて家へ引返してくれた。
 日在浜のはずれで、丁度長者町にかかった砂浜の小さな破船のような茶屋である。この茶屋の老夫婦は、気持ちよく風呂をわかしてくれたりした。こんな伸々と自然のままな姿で生きていられる世界もある。私は、都会のあの荒れた酒場の空気を思い出すさえおそろしく思った。天井には、何の魚なのか、魚の尻尾《しっぽ》の乾いたのが張りつけてある。
 この部屋の電気も暗ければこの旅の女の心も暗い。あ
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