[#ここで字下げ終わり]

 この老松の詩をふっと思い出すと、とても淋しくて、黒ずんだ緑の木立ちの間を、私はむやみに歩くのだ。――久し振りに、私の胸にエプロンもない。白粉もうすい。日傘をくるくる廻しながら、私は古里を思い出し、丘のあの老松の木を思い浮べた。――下宿にかえってくると、男の部屋には、大きな本箱が置いてあった。女房をカフエーに働かして、自分はこんな本箱を買っている。いつものように二十円ばかりの金を、原稿用紙の下に入れておくと、誰もいないきやすさに、くつろいだ気持ちで、押入れの汚れものを探してみる。
「あの、お手紙でございます。」そう云って、下宿の女中が手紙を持って来た。六銭切手をはったかなり厚い女の封書である。私は妙な気持ちで爪を噛《か》みながら、只ならぬ淋しさに、胸がときめいてしまった。私は自分を嘲笑《ちょうしょう》しながら、押入れの隅に隠してあった、かなり厚い女の手紙の束をみつけ出したのだ。
 ――やっぱり温泉がいいわね、とか。
 ――あなたの紗和子より、とか。
 ――あの夜泊ってからの私は、とか。
 私は歯の浮くような甘い手紙に震えながらつっ立ってしまった。――温泉
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