してもらおうと思えば、私はその何十倍か働かねばならないじゃないの。真実同志よと叫ぶ友達でさえ嘲笑っている。

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歌うをきけば梅川よ
しばし情《なさけ》を捨てよかし
いずこも恋にたわぶれて
それ忠兵衛の夢がたり
[#ここで字下げ終わり]

 詩をうたって、いい気持ちで、私は窓|硝子《ガラス》を開けて夜霧をいっぱい吸った。あんな安っぽい安ウイスキー十杯で酔うなんて……あああの夜空を見上げて御覧なさい、絢爛《けんらん》な、虹《にじ》がかかった。君ちゃんが、大きい目をして、それでいいのか、それで胸が痛まないのか、貴女の心をいためはせぬかと、私をグイグイ掴んで二階へ上って行った。

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やさしや年もうら若く
まだ初恋のまじりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るるその姿
[#ここで字下げ終わり]

 好きな歌なり。ほれぼれと涙に溺れて、私の体と心は遠い遠い地の果てにずッとあとしざりしだした。そろそろ時計のねじがゆるみ出すと、例の月はおぼろに白魚の声色屋のこまちゃくれた子供が来て、「ねえ旦那! おぼしめしで……ねえ旦那おぼしめしで……」とねだっている。

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