余丁《よちょう》町の方へ出て、暑い陽射しのなかに、ぶらぶら歩く。亀が這っているような自分の影が何ともおかしい。三宅やす子さんの家の前を通る。偉い女の人に違いない。門前の石段に一寸腰を降して休む。三宅さんは、朝飯も食べない女が、自分の門前に腰をかけているとも思うまい。門の中で、男の子供が遊んでいる。頭のでっかい子供だ。
 若松町へ出て、また、わけもわからずに狭い路地の中を歩いてみる。腹がへって、どうにも歩けやしない、漠然とした考えにとらわれる。第一、暑いので、気が遠くなりそうだ。ところてんでも食べたいものだ。
 背中は汗びっしょり、脚の方へ汗が滴になって流れる。下宿屋をのぞいてみるが、学生はみんな帰省していてひどく閑散。
 何の為に、こんなとこへまで歩いて来たのかさっぱり判らない。真実を云えば、商売をする事よりも、只、己れのセンチメンタルに引きずられて歩いていたい下心なのかも知れない。歩いて、いい事もないとなれば、それがまた、自分を悲しくやるせなくしていると、私は甘くなって、下駄を引きずりながら歩く。家にいて、親の顔なぞ見たくもないと云う、そんなわけ[#「わけ」に傍点]と云うものなり。一つ蒲団に何時までも抱きあって寝ている親の姿はいやらしい。上品になりたくても上品にはなれない。親の厄介さがたまらない。何処かへ一人で行って、たった一人で暮したい。ああ、そんな事を考えて歩くと、また、べたべたと涙が溢れる。塩っぱい涙を舌のさきでなめているかと思うと、もう、けろりとして、また背中の荷物をゆすぶりあげて歩く。蝸牛《かたつむり》のような私のずんぐりむっくりした影。風呂へはいって、さっぱりと髪を洗う夢想。首筋から、胸へかけて、ぶつぶつとあせも[#「あせも」に傍点]のかさぶたではどうにもなりません。
 小石川の博文館に、いつか小説を持って行ったが、懸賞小説はいまやっていないと断わられてしまったが、島田清次郎は、どんなに工合のいい頭をしているのかしら……。行商も駄目、書く事も駄目となれば、玉の井に躯を売り込むより仕方がないね。三好野で、三角の豆餅を一皿取って食べる。ぬるい茶がごくごくと咽喉《のど》を通る。
 相変らずの下等な趣味。臆病で、弱気で、そのくせ、何かのほどこしを待っているこの精神だ。ほどこしを受けたい一心で生きているようなものだ。ねえ、私は、ねえと云う小説を書きたし。ウエルテルの嘆きと少しも変らぬ、そんなものだ。快適な地すべりをして、ウエルテルの文字は流れている。甘い事この上なしの惚れ文《ぶみ》なり。私はもっと、憎悪を持って、男の事を考える。嘘ばかりで、文学が生れている。みせかけの図々しさで、作者は語る。淫蕩《いんとう》で、仁慈のあるスタイルで、田舎者の読者をたぶらかす。厭じゃありませんか。
 いっその事、神田の職業紹介所まで行って、また、あの桃色カードの女になってみようかと思う。月三十円もあれば、また、静かに書きものは出来る。畳に腹ばって、二十枚八銭の原稿紙を書きつぶす快味。たまには電気ブランの一杯もかたむけて、野宿の夢を結ぶジオゲネスの現実。面白くもないこの日常から、きりきりと結びあげたい気にもなる。
 蒸気をシュッシュッと吐いて生きなければなりませんとも……。おてんとうさまよ。どうして、そんなに、じりじりと暑く照りつけて苦しめるのですか? 暑い。全く、暑くて悶死《もんし》しそうだ。どっかに、巨《おお》きな水たまりはありませんかね。鯨の如く汐を噴いてみたいのですよ。
 一銭の商売にもありつけず、夕方御きかん。
 キャベツにソースをふりかけて、麦飯にありつく。義父はしのぶ売りに出掛けて留守。お母さんは腰巻一枚で洗濯。私も裸になって、井戸水をかぶる。
 少女画報から、原稿返っている。
 舌を出して封を切る。
 奇蹟の森なぞと気取った題をつけても、原稿は案外戻って来る。何も、奇蹟なぞありようがない。信心家の貧しい少女が、パレスチイナでの地を支配する物語なぞ、犬に食われてしまうのは必定、のぼせあがって、世界一の作文なぞに思った事も束《つか》の間《ま》。ああ、この心のほこりも蝶の如く雨の中にかきつけられてしまいましたである。
 井戸水を浴びて、かっかっと火照《ほて》る躯で畳に腹這い、多少なりとも先途の事を考える。燈をしたって、蛾《が》やかなぶんぶんが飛んで来る。何よりもうるさいのは蚊軍の責め苦なり。
 古い文章倶楽部を出して読む。相馬泰三の新宿|遊廓《ゆうかく》の物語り面白し。細君はとり子さんと云うのだそうだが、文章では美人らしい。
 ああ、世の中は広いものだ。毎日、何とか、美味いものを食って、夫婦でのんびり夜店歩きの世界もある。
 あれもこれも書きたい。山のように書きたい思いでありながら、私の書いたものなぞ、一枚だって売れやしない。そ
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