地ぎたなさ
その日その日が食ってゆければ
まず学者は論文を書く
そんなものなのだろうけれど

私は陳列を見ているといいのだ
みんな手に取ってみせる力が湧く
[#ここで字下げ終わり]

(八月×日)
 下谷の根岸に風鈴を買いに行き、円い帽子入れに風鈴を詰めて貰って、大きなかさ[#「かさ」に傍点]ばった荷物を背負って歩く。薄い硝子《ガラス》の玉に、銀のメッキをしたのがダースで八十四銭。馬鹿馬鹿しい話なンだけど、これを草しのぶの下に吊して、色紙のタンザクをつけて売るにはね。汗びっしょりで、何とも気持ちが悪い。からりと晴れた空。まるで、コオボウ大師を背中にしょってるような暑さなり。
 夜、一銭なしで、義父上京。
 広島も岡山も商売は不景気な由なり。
 私はこの人達から離れて暮したいと思う。一緒に暮していると、べとべとにくさってしまいそうだ。心のなかでは、何時でも気紛れな殺人を考えている。少しずつ犯人になった恐怖におそわれる。自分も死んでしまえばいいと思いながら、人間はこうした稀《ま》れな心理のなかには仲々飛び込めないものだと思う。穏かに暮してゆくには、日々の最少の糧がなくては生きてゆけない。頻繁《ひんぱん》に心理的なしゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]になやまされる。考える果ては金が欲しい事だ。金さえあれば、単純な生き方が何年かは続けられる。このさきざき、珍らしい事が起きようとは思わない。充分満足する心が与えられない。前の荷馬車屋で酔っぱらいの歌がきこえる。火の粉のように爆発したくなる。もう一度、あの激しい大地震はやって来ないものだろうか。何処を歩いても、美味そうなパンが並んでいる。食べた事もないふわふわなパンの顔。白い肌、触れる事も出来ないパン。
 夜更けて、ハムスンの「飢え」を読む。まだまだこの飢えなんかは天国だ。考える事も自由に歩く事も出来る国の人の小説だ。進化《エヴオリュウション》と、革命という言葉が出て来る。私にはそんな忍耐もいまはない。泥々で渇望の渦のなかに、何も考えないで生きているだけだ。窒息から、かろうじて生きているだけだ。口惜しくなると、そこいらへ小刀で落書きをしたくなる生き方を神様よ御ぞんじですか……。只、こうして手をつかねて風鈴をしのぶ草にくくりつけている。馬鹿に涼しそうだと云って買ってゆく人間の顔が眼に浮ぶ。いまに何とか人生を考えなければなるまい。
 夜更けの川添の町を心を竦《すく》めて私は歩く。尻からげで、只、黙って歩いている。星なんぞは眼にもはいらない。星なんか、みんな私は私の眼から流してしまう。それきりだ。私が尻からげをして歩いているので、狂人女かと、歩く人が、そっとよけて通ってゆく。私はにやにや笑う。男が来ると、わざと、その方へすたすたと歩いてみる。男は大股に、私の方から逃げてゆく。心のなかでは、疾風|怒濤《どとう》が吹きつけていながら、生きて境界のちがう差異が私には判って来る。自分以外の人間が動いていて、その人間たちが、みんな、それぞれに陰鬱にみえる。
 私は、いつでも、売春的な、いやらしい自分の心のはずみに驚く。何も驚く事はないくせに、一寸した動機で、何時でも自分をやけくそに捨ててしまえる根ざしはあるものなり。暑いせいか、私はますます原始的になり、せめて、今夜だけでも平凡ではいられないと苛々《いらいら》して来る。迷惑は何処にもころがっていると思いながら、窓の燈を見ると、石を投げたくなるのはどうした事だろう。
 小さい制限のなかで生きているだけなのよ。そこから、出る事も引っこむ事も出来ない。イエス・キリストのたまわくだ。キリストがベツレヘム生れだなんて怪しいものだ。いったい、イエス・キリストなんて、大昔に生きていましたのかね。誰も見た人はないし、誰も助けられたものはない。おシャカ様にしたって怪しいものだ。
 太陽や月を神様にしている孤島の人種の方がはるかに現実的で、真実性があるのに、神様だなんて、たかが人間の形をしているだけの喜劇。この環境の息苦しさを誰一人怪しむものもない。

(八月×日)
 今日はさんりんぼうで、商売に出ても、大した事もないと、お母さんも義父も朝寝。みいんみいんと暑くるしく蝉が啼きたてている。前の牛小舎では、荷車に山のように白い豆腐のおからが盛りあげて、蠅《はえ》がゴマのようにはじけている。おからが食べたくなる。葱を入れて油でいったら美味いな。
 家にいるのが厭なので、また、荷物を背負って一人で出掛ける。別に大した事もないけれど、何時もさんりんぼうのような暮しで、今日のようないい天気をとりにがすのも変な話だと、大久保へ出て、浄水から、煙草専売局へ出て、新宿まで歩く。油照りのかあっとした天気だ。抜弁天《ぬけべんてん》へ出て、一軒一軒歩いてみるが、クレップの襯衣なぞ買ってくれる家もない
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