。額が馬鹿に広くて、眼の小さいところがメダカに似ている。三十を過ぎたひとだそうだけれども、声が美しい。この暑いのにいつも足袋をはいたかたくるしさ。私は、この民子さんの素足を見た事がない。
 喜びにつけ、悲しみにつけ、私は私の人生に倦怠《けんたい》を感じはじめた。偶然から湧《わ》いて来る体験、そンなものにほとほと閉口|頓首《とんしゅ》、男といっしょにいるのも厭《いや》、夜の酒場勤めも長続きするものではないとなれば、結局は女中にでもなるより仕方がないけれど、これも私の柄にはあわない。今日で三日になるけれど、何となく居辛い。ここの雨戸の開閉がむずかしいように、何とも不馴れなことばかりなり。
 己惚《うぬぼ》れの強さがくじけてしまう。何とも楽なことではないけれども、楽をしようなぞとは思わぬかわりに、ほんの少々のひま[#「ひま」に傍点]がほしい。女中ふぜいが、深夜に到るまで本を読んでいるなぞとは使いづらいに違いない。こちらも気の引けることだけれども、今夜こそは早く電気を消して眠りにつこうと思いながら、暗いところではなおさらさえざえとして頭がはっきりして来る。越し方、行末のことがわずらわしく浮び、虚空を飛び散る速さで、瞼《まぶた》のなかを様々な文字が飛んてゆく。
 速くノートに書きとめておかなければ、この素速い文字は消えて忘れてしまうのだ。
 仕方なく電気をつけ、ノートをたぐり寄せる。鉛筆を探しているひまに、さっきの光るような文字は綺麗に忘れてしまって、そのひとかけらも思い出せない。また燈火を消す。するとまた、赤ん坊の泣き声のような初々しい文字が瞼に光る。段々疲れて来る。いつの間にかうとうとと夢をみる。天幕のなかで広告とりをしていた夢、浅草の亀。物柔らかな暮しと云うものは、私の人生からはすでに燃えつくしている。自己錯覚か、異様な狂気の連続。ただ、落ちぶれて行く無意味な一隅。ハムスンの飢えのなかには、まだ、何かしらたくらみを持った希望がある。自分の生きかたが、無意味だと解った時の味気なさは下手な楽譜のように、ふぞろいな濁った諧音《かいおん》で、いつまでも耳の底に鳴っているのだ。

(七月×日)
 暑いので、胸や背中にあせもが出来る。帯をしっかり結んでいるので、何とも暑い。蝉がジンヤジンヤと啼《な》きたてている。台所で水を何杯も飲む。窓にかぶさっている八ツ手の葉が暑っくるしい。明日は一応ひまを取って、千駄木へ帰ろうと思う。
 こうしていてはどうにもならないのだ。五円の収入では田舎へ仕送りも出来ない。心の籠《こも》った美しい世界は何処にもない。自分で自分を卑しむ事ばかりだ。己惚れと云うものが、第一に自分を不遇のなかに追いこんでいるのだ。ものを書きたい気持ちなぞ何もなるものではないくせに、奇抜なことばかり考えては、自分で自分をあざけり笑うのみ。人には云えないけれど、自分がおかしい。何もまともなものは書けもしないくせに、文字が頭の芯にいつも明滅していると云う事はおかしい事なのだ。たかが田舎者のくせに、いったい文学とは何事なのでございましょうか? 神様よ。屡々《しばしば》、異様な人生が私にはある。そして、それに流されている。何かをやってみる。そして、その何かがすぐ不成功に終る。自信がなくなる。
 失敗は人をおじけさせてしまう。男にも、職業にも私はつまずいてばかりいる。別に、誰が悪いと恨むわけではないのだけれども、よくもこんなに、神様は私と云うとるにたらぬ女をおいじめになるものだ。神様と云うものは意地の悪いものだ。あなたは、戦慄《せんりつ》と云う事を感じた事はないのだろう……。
 やかましい音をたててジョウサイ屋が路地口に来る。物売りの男を見るたびに、行商をしている義父の事を思い出す。たまには五十円位もぽんと送ってやれないものかと思う。隣家の垣根に、ひまわりが丈高く後むきに咲いているのが見える。
 来世は花に生まれて来たいような物哀しさになる。ひまわりの黄は、寛容な色彩。その色彩の輪のなかに、自然だけが何とない喜びをただよわせている。人間だけが悩み苦しむと云ういわれ[#「いわれ」に傍点]を妙な事だと思う。――奥さんは近いうち新潟へ帰郷の由。早くこの家を出なければならぬ。
 夕方、八重垣町の縫物屋へ奥さんの夏羽織の仕立物を取りに行く。戸外を歩いていると吻《ほっ》とする。どの往来も打水がしてある。今日は逢初の縁日だと、とある八百屋の店先きで人が話しあっている。バナナがうまそうだし、西瓜も出ている。久しく西瓜も食べた事がない。
 ふっと、田舎へ帰りたい気がする。赤い袴《はかま》をはいた交換手らしい女が三四人で私の前をはしゃぎながら行く。大正琴の音色がしている。季節らしさのこもった夕暮なり。金さえあれば旅行も出来よう、この季節らしさが口惜しくなって来る。いつま
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