でも、仕事探しで、よろよろと、二十歳の私の青春は朽ちてゆくのかもしれない。漂うに任せての生活にも本当に厭になってしまう。自分らしい落ちつき場所と云うものは仲々みつからぬものだ。
 人生と云うものはこんなに何かしらごちゃごちゃと寄り添っていながら、わざと濁った方へ、苦しい方へ、退屈な方へ流されて行ってしまっている。そして、人々は不用意に風邪を引く。何処で引いたのかは気がつかない。夜、メダカ女史が泣いていた。どのような原因なのかは知らないけれども、取りみだして泣いている。白いカバーのかかった座蒲団の重ねてある暗いところで泣いている。書斎は森閑としている。
 台所で一人で食事。来る日も来る日も、なまぬるい味噌汁と御飯。ぬか漬の胡瓜《きゅうり》を一本出してそっと食べる。ああ、たまにはジャムつきのパンが食べたい。
 奥さんが、小さい声で叱っている声がする。恩を仇《あだ》で返されたようなものよと云う声がする。学者の家と云えどもいろいろな事あり。――メダカ女史の見栄坊がねこそぎ失脚してしまった。その後は声をたてて泣く。女の泣き声が美しいのに心が波立つ。やぶれかぶれで、またぬか漬けの茄子《なす》を出して食べる。
 酢っぱい汁が舌にあふれる。
 凪《なぎ》に近い暑さ。風鈴が時々ものうく鳴る。明日はこの家を出たいものだ。何しろ、蚊が多いのはやりきれない。台所をかたづけて、水道で躯を拭いていると、ひどい藪蚊《やぶか》にさされる。皮膚が弱いのですぐぷっとふくれる。浴衣を水洗いして夜干しをして置く。いい月夜なり、写真のような白と黒の影で、狭い庭のそこここに白い人が立っているような錯覚がする。

(七月×日)
 濁った水を走る、小さい魚の眼にも、澄んだ真夏の空が光っている。およそ、模範的だなぞと云う人間ぐらい厭なものはない。歩いている人間がみんなそうだ。二本の足をかわりばんこに動かして、まるで、目の前に希望がぶらさがっているような、あくせくした行進だ。
 この世の中にどんな模範があるのだろう。人いじめで、いやらしくて、大嘘つきで、自分ばかりをおたかく考えている人間。口に人類だの人道主義だなぞと云って、あのメダカ女史をうまいことだましたに違いない。その恋人は一生足袋をはいて暮さなければ格が落ちるとでも教育されたのに違いない。
 女には反抗する姿勢がないのだ。すぐ、じめじめと泣き出す。
 夜、上野の鈴本へ英子さんと行く。
 猫八の物真似、雷門助六のじげむの話面白し。ああすまじきものは宮づかえ、千駄木へ戻って、井戸で水を浴びる。
 物干に出て涼んでいると、星が馬鹿に綺麗だ。地虫が啼いている。蚊が唸っている。夜更けまで、何処かで木魚を叩くような音がしている。長い月日を西片町で暮していたような気がする。英子さんは、二三日して大阪へ戻る由なり。その後のことはまた考えればいいのだ。せめて、二三日、黙ってぐっすり眠りたいものなり。

(七月×日)
 昼近く、読売新聞に行き、清水さんに面会に行くが、とうとう詩を返される。帰り、恭ちゃんのところへ寄る。ここも、不如意な暮しむきなり。節ちゃんと縁側で昼寝。氷水を十杯も飲みたい気持ちで眼が覚める。節ちゃんは子供を柱へくくりつけて洗濯。
 何処へも行き場のない、行きくれた気持ちで縁側で足をぶらぶらさせていると、路地の外をものうい唄をうたってジンタが通る。籠の鳥でもちえ[#「ちえ」に傍点]ある鳥は、人目しのんで逢いに来る。……何だかその唄が身につまされて心のなかが味気なくなって来る。庭のすみに、小さい朝鮮朝顔の桃色の花がいっぱい咲いている。久しぶりで、しみじみと花の咲いたのをみた。恭次郎さん仲々戻らない。財布をはたいて、釜あげうどんを二つとって節ちゃんと食べる。金は天下のまわりもの、いずれは、のろのろとした速度で、また金のはいる事もありましょう。

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逢初の縁日は
香具師《やし》がいっぱい
粉だらけの白い朝鮮|飴《あめ》
螢売《ほたるう》りに虫売り
大道手品は喝采《かっさい》でいっぱい
カーチンメンドの冷し飴
臆病者の散歩
カアバイトの臭い燈火
バナナ屋のねじり鉢巻
ええあの太いのがくさるのよ

ゴム管で聴く蓄音機
ホーマーの詩でもあるのかな
深山の薄雪草にも似た宵
綿の水を吸って絹糸草が青い
水中花はコップの中で一叢《ひとむら》
アルペンの高山植物らしく
男を売る店は一軒もない
乾いた海ほうずきの紅色
心臓が黙って歩いている

ああ五時間もすれば
またどんな人生がやって来るのだろう
不可能のなかに後退してゆく脚
少しずつ思いの色が変化する
ゴマ入りの飴玉をしゃぶる
縁には紐《ひも》のない玉手箱。
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(七月×日)
 英子さんが一緒に大阪へ行かないかと云う。大阪へ行く気はしないけれど、岡
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