ふんぱつする。茶をたらふく飲んで、店の金魚を暫《しばら》く眺めて、柳さく子のプロマイドをエハガキ屋でいっとき眺める。
 どの路地にもしめった風が吹いている。
 ふっと、詩を書きたくなる一瞬がある。歩きながら眼を細める。何処からも相手にされない才能、あの編輯者のことを考えるとぞおっとして来る。まんまと人の原稿をすり替えた男。この不快さは一生忘れないぞと思う。私にだって憎悪の顔がある。何時も笑っているのではありません。笑顔で窒息しそうになる気持ちを幸福な人間は知るまい。私は、そんな人間の前で笑っていると、胸の中では呼吸のとまりそうな窒息感におそわれる。
 一つの不運がそうさせるのだ。
 残酷な人の心。チエホフの、アルビオンの娘みたいなものだ。
 寿司屋では茶柱が二本も立ったので、眼をつぶってその辻占《つじうら》をぐっと呑みこんでしまった。だから、お前はいやしいと云うのだ。ほんの少しの事にでもキタイ[#「キタイ」に傍点]を持ちたがる。たかが広告取りの女に、誰が何をしてくれると云うのだねと、神様みたいなものがささやきかける。また、あの糠。いやな、日向《ひなた》臭い糠――。帰り合羽橋へ抜けて、逢初町の方へ出るところで、辻潤の細君だと云うこじまきよさんに逢う。
 逢初の夜店で、ロシヤ人が油で揚げて白砂糖のついたロシヤパンを売っていた。二つ買う。
 現実に戻ると、日給の八十銭は仲々ありがたい。

        *

(七月×日)
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薄曇り四年にわたる東京の
隙間をもれて
思い出はこの空気の濁り
午後にやむ雨
蝉《せみ》の声網目の如し
胸の轟《とどろ》き小止《おや》みめぐる血
西片町のとある垣根の野薔薇《のいばら》
其処《そこ》ここに捉《とら》われる風

小さき詩人よ
所在《ありか》なくさまよう詩人
窮して舞う銭なしの詩人
寂寞の重さにひしがれ
彷徨《さまよ》うは旅の夢跡
何処《どこ》やらに琴のきこゆる
消える音 消える夢

西片町の静かなる朝
金魚屋のいこう軒
浸み渡る円《えん》の水
赤い尾ひれのたまゆらの舞い

咽喉《のど》がかわく
真白な歯は水くぐる
歓びは枇杷《びわ》の果のしたたり
盗みて食う庭かげ
酢くしわめる舌は
英吉利《イギリス》語の如し

不愉快なバイブルの革表紙
しめって臭く犬の皮むけ
西片町の邸の匂い
枇杷の実はくさったまま
木もれびの下のキジ猫
森閑と静もれる西片町

金魚屋のバッカン帽子が呟く
詩人もしゃがむ
円にうつす水鏡
雲に浮く金魚の合唱
生死のほどはいまもわからぬ
ただこの姿あるうちに召しませ

西洋洗濯のペンキ車
白い陶の表札と呼鈴
時間のとどまる一瞬の朝
この家々が澄まして悪を憎む
ペンキ車は後追う詩人
どこやらでうそ[#「うそ」に傍点]の鳴き声
世に叫ぶ何ものも持たざる詩人
開闢《かいびゃく》とは今日のことなり
昨日はもうすでに消え
あるは今日のみ今の現実
明日が来るのか……
明日があるのか詩人は知らぬ
[#ここで字下げ終わり]

(七月×日)
[#ここから2字下げ]
斑々《まだらまだら》に立つ斑々
人生の青さの彼方《かなた》
重く軽く生きる斑々
燈火によるかげろう
只ひきずられて生きる
忽然《こつぜん》と消えるも知らず
希望らしげな斑々の顔
悪念|怨恨《えんこん》その日暮し
どうせ死ぬ日があるまでは
ムイシュキン様の憤怒《ふんぬ》絶望。

よりにもよって暗い顔
楽しい月日の人生なぞとは
あわあわとたわけたことだ
辛抱強くよくも飽きずに
Mボタンをはずしたり閉めたり
閃《ひらめ》き吹きあげる焔《ほのお》の息

斑々の辛抱強さの厚顔
頻《しき》りと雷同する斑々
時々はあじさいの地位名誉
下碑が鍋尻を洗う容貌《きりょう》

軽く重く衝突する斑々
床の間には忠孝
欄間には洗心
壁間には欲張った風流
ああ私は下婢となって
毎日毎日鍋尻を洗うのだ
斑々の偽善!
[#ここで字下げ終わり]

 自分が何故こんなところにいるのか判らない。只、何となく家庭らしさをあこがれて来たようなあいまいな気持ちばかり。五円のおてあてではどうにもならぬ。――旦那さまは大学の先生だと云う。何を教えているのかさっぱり判らない。英国へ行っていたけいれき[#「けいれき」に傍点]はあるのだそうだ。毎朝パン食。牛乳が一本。ひげをそって、水色裏の蝙蝠傘《こうもりがさ》を持って御出勤になる。大学までは、ほんの眼と鼻のところだのに、蝙蝠傘の装飾が入用なのだ。暑くても寒くても動じぬ人柄なり。歴史を語るのだそうだけれども、私は一度も講義を聞いたことはない。奥さんは年上で、もう五十位にはなっているのだろう。彫の深い面のような顔、表札の陶に似た濃化粧だ。奥さんの姪《めい》が一人。赤茶色の艶《つや》のない髪を耳かくしに結って鏡ばかり見ている
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