陽の照る通りを、美しい女達が行く。私はまだ洗いざらしたネルを着ている。暑くて仕方がないけれど、そのうち浴衣の一反も買いたいと思う。
 眼の前のカフエーライオンでは眼の覚めるような、派手なメリンスを着た女給さんが出たりはいったりしている。世の中には、美しい女達もあるものだと思う。まるで人形のようだ。第一等の美人を募集するのに違いない。
 こうした賑やかな通りは、およそ、文学と云うものに縁がない。金さえあれば、いかなる享楽もほしいままなのだ。その流れの音を私は天幕の中でじいっとみつめている。たまには乞食も通る。神様らしきものは通らない。そのくせ、昼食時のサラリーマンの散歩姿は、みんな妻楊枝《つまようじ》を咥えて歩いている。ズボンのポケットに一寸手をつっこんで、カンカン帽子をあみだにかぶり、妻楊枝をガムのように噛《か》んでいる。
 私は天幕の中で色々な空想をする。卓子のひき出しの中には、ギザギザの大きい五十銭銀貨が溜《たま》ってゆく。これを持って逃げ出したらどんな罪になるのだろう……。広告主はみんな受取を持って来るから、広告がいつまでたっても出ないとなれば呶鳴りこんで来るかもしれない。これだけの金があれば、どんな旅行だって出来る。外国にだって行けるかも知れない。これだけの金を持って何処かへ行く汽車に乗る。そして、それが罪になって、手をしばられてカンゴクへ行く。空想をしていると、頭がぼおっとして来る。この半分を母へ送ってやれば、どんないいひとがみつかったのかと田舎では驚くかもしれない。あのひと達を二人そろって呼びよせる事も出来る。
 理想的な同人雑誌を出す事も出来るし、自費出版で美しい詩集を出す事も出来る。卓子の鍵《かぎ》をじいっとみつめていると、心がわくわくして来る。ひき出しをあけて金を数える。百円以上も貯《たま》っている。大したものだ。銀貨の重なった上に掌をぴたりとあててみる。気が遠くなるような誘惑にかられる。私以外にはここには誰もいない。四時になれば、あの眼尻にいぼのあるひとが金を取りに来る。
 罪人になる奇蹟《きせき》。
 何と云う罪になり、どの位カンゴクにはいるものだろう……。
 神様がこんな心を与えるのだ。神がね。
「朝から夜中まで」の銀行員の気持ちにもなる。
 プロシャのフレデリックは「誰でも、自分自身の方法で自分を救わなければならぬ」と云ったそうだ。ああ、誰かが金を持って、この天幕を訪れる。私は鉛筆をなめながら、註文主の代筆で三行の文章を綴る。みんな美しい奴隷を求める下心だ。その下心を三行に綴るのが私の仕事。もう、私の頭の中には詩も童話も何もない。
 長い小説を書きたいと想う事があっても、それは只、思うだけだ。思うだけの一瞬がさあっと何処かへ逃げてゆく。
 花柳病院の広告を頼みに来る医者もいる。まことに、芸妓募集、花柳病院とは充実したものだ。私は皮肉な笑いがこみあげて来る。あらゆるファウストは女に結婚を約束して、それからすぐ女を捨てる。三行広告にもいろいろな世相が動いている。
 それが証拠には、産婆の広告も毎日やって来る。子供やりたしとか、貰いたしとか、いかようにも親切に相談とか。広告を書きながら、私は私生児を産みに行く女の唸り声を聞くような気がする。
 そして、私は、毎日、いぼ[#「いぼ」に傍点]さんから八十銭の日給を頂戴してとことこ本郷まで歩いて帰るのだ。
 感化院。養老院。狂人病院。警察。ヒミツタンテイ。ステッキガール。玉の井。根津あたりの素人淫売宿。あらゆる世相が都会の背景にある。
 或る作家|曰《いわ》く、三万人の作家志望者の、一番どんじりにつくつもりなら、君、何か書いて来給え……。ああ、怖るべき魂だ。あの編輯者が、私を二時間も待たせる根性と少しも変りはない。
 私は生涯、この歩道の天幕の広告取りで終る勇気はない。天幕の中は六月の太陽でむれるように暑い。ほこりを浴びて、私はせいぜい小っぽけな鉛筆をくすねるだけで生きている。
 北海道の何処かの炭坑が爆発したのだそうだ。死傷者多数ある見込み……。銀座の鋪道《ほどう》はなまめかしくどろどろに暑い。太陽は縦横無尽だ。新聞には、株で大富豪になった鈴木某女の病気が出ている。たかが株でもうけた女の病気がどうであろうと、犯罪は私の身近にたたずんでいる。
 株とは何なのか私は知らない。濡手で粟《あわ》のつかみどりと云う幸運なのであろう。人間は生れた時から何かの影響に浮身をやつしている。
 三万人の尻っぽについて小説を書いたところで、いったい、それが何であろう、運がむかなければどうにも身動きがならぬ。
 夜、独りで浅草に行く。ジンタの音を聴くのは気持ちがいい。誰かが日本のモンマルトルだと云った。私には、浅草ほど愉しいところはないのだ。八ツ目うなぎ屋の横町で、三十銭のちらし寿司を
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