一カ月がせいぜいと云った勤め場所なり。
 夜、女中部屋へ落ちついたのが二時すぎ。私は呆んやりしてしまう。汚れた箱枕をあてがわれて、それに生がわきの手拭をあてて横になる。女達は、寝ながら賑やかに正月のやりくり話をしている。
 どの男から何をせしめて、この男から何を工面してもらって、ああ、こんなひとたちにも男のひとがいるのかと妙な気がして来る。お芳さんは今日は子供を連れて稲毛へ行ったかしら……。私はここにいられるだけいて、その上で、多摩川の野村さんのところへお嫁に行こうかと思う。考えてみたところで、あそこよりほかに行く当もない。

(十二月×日)
 ヨシツネさんが話があると云う。なんの話かと、ヨシツネさんについて、朝の街を歩く。
 泥んこに掘りかえされた駒形の通りから、ぶらぶらと公園の方へ行く。六区の中の旗の行列。立ちんぼうがぶらついているひょうたん池のところまで来ると、ヨシツネさんは、紙に包んだ薄皮まんじゅうを出して三つもくれた。
「お前いくつだ」
「二十歳……」
「ほう、若く見えるなア、俺は十七八かと思った」
 私が笑ったので、ヨシツネさんも頭をかいて笑った。筒っぽの厚司《あつし》を着て汚れた下駄をはいているところは大正の定九郎だ。
 話があると云って、なかなか話がない。ああそうなのかと思う。まんざら嬉しくなくもないけれど、何となくあんまり好きな人でもない気がして来る。朝のせいか、すきすきと池のまわりは汚れて寒い。ヨシツネさんはうで玉子を四ツ買った。塩が固くくっついているのが一ツ五銭。歯にしみとおるように冷いうで玉子を、池を向いて食べる。枯れた藤棚の下に、ぼろを着た子供が二人でめんこをして遊んでいる。
「俺、いくつ位にみえる?」
 背の高いヨシツネさんが、大きい唇に、玉子を頬ばりながら訊《き》いた。
「二十五ぐらい?」
「冗談云っちゃいけないよ。まだ検査前だぜ……」
 へえ、そうなのかと吃驚《びっくり》してしまう。男の年は少しも判らない。ああそんなに若いのかと、急に楽々した気持ちで、
「あんた生れは何処?」
 と、訊いてみた。
「横浜だよ」
 ああ海の見えるところだなと思う。
「どうして、あんな牛屋なンかにいるの?」
「不景気でどこにも一人前の口がないからよ。検査が済んだら、さきの事を考えるつもりだ」
 汚ない池の水の上に、放った玉子のから[#「から」に傍点]がきらきら反射している。別に話もない。物憂そうな楽隊の音がしている。石道は昨日の雪どけでべとついている。寒い。カンノン様を拝んで仲店《なかみせ》へ出る。ヨシツネさんがふっと小さい声で、
「俺のとこへ来ないか?」
 と、云った。
「何処?」
「松葉町に、おふくろと二階借りしてるンだよ。おふくろはよその家へ手伝いに出掛けていまいない」
 私はヨシツネさんがあんまり若いので行く気がしない。子供のくせにとおかしくてたまらない。
「どうだ?」と訊かれて、私は、「いやだわ」と云った。ヨシツネさんはまた歩き出す。私も歩く。只、寒いのでやりきれない。歩いているのは平気だけれど、私は恋をするなら、もう、心の重たくなるような男がいい。ヨシツネさんの二階借りに行く気はさらさらないのだ。
 仲店で、ヨシツネさんはつまみ細工の小さい簪《かんざし》を一つ買ってくれた。一足さきに私は店へかえる。
 まだ、通いの人達は来ていない。小さい簪が馬鹿に美しい。澄さんの鏡をかりて髪に差してみる。変りばえもしない顔だちだけれども、首の白いのが妙に哀れに思える。何だか玉の井の女になったような寒々しい気になって来るけれども、何とない自信も湧いて来る。

[#ここから2字下げ]
馬がかんざしを差した
よろけながら荷をひく馬
一斗も汗を流して
ただ宿命にひかれてゆく馬

たづなに引かれてゆく馬
時々白い溜息《ためいき》を吐いてみる
誰もみるものはない
時々激しい勢でいばり[#「いばり」に傍点]をたれ
尻っぺたにむちが来る
坂を登る駄馬

いったいどこまで歩くのだ
無意味に歩く
何も考えようがない。
[#ここで字下げ終わり]

 退屈なので、鉛筆をなめながら詩を書く。女達はあれこれとやりくり話をしている。誰かが私の簪をみて、
「あら、いいのを買ったじゃアないの」
 と、云った。私はみんなにみせびらかしているような気がしてきた。
 文章倶楽部を読む。生田春月選と云う欄に、投書の詩が沢山のっている。
 夜。ヨシツネさんがまたみかんをくれた。だんだんこの店も師走いっぱい忙《せ》わしい由なり。煮方の料理番が、私がヨシツネさんにみかんを貰っているのを見て冷かしている。
 漂いながら夢のかずかずだ。淋しい時は淋しい時。ヨシツネさんと云うのは、義経と書くのだそうだ。
 ヨシツネさんは善良そのものに見えるけれど、どうにも話が合いそうにもな
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