げっぷ[#「げっぷ」に傍点]が出る。いやらしくて仕方がない。うどんに何の哲学があるのよ。天才はカステイラを食べているンでしょう? うどんの人生。そのくせ、私は、高尚だとか、文学だとか、音楽や、絵画と云うものに無関心ではいられない。――ポオルとヴィルジニイなんて、可愛らしい小説じゃあないの――。オブロモフもこの世にはいます。オネーギン様、あらあらかしこだ。いっぺんでいいから私と恋を語るひとはないものかしら……。明日から牛屋の女中だなんて悲しい。牛殺しがいっぱいやって来る。地獄の鍋《なべ》に煮てやる役はさしずめ鬼娘。ああ味気ない人生でございます。
私は女優になりたい。
浅草は人の波、ゆくえも知らぬさすらい人の巷なりけり。
(十二月×日)
駒形《こまがた》のどじょう屋の近く、ホウリネス教会の隣りの隣り、ちもとと云う店。まず家の前を二三度行ったり来たりして様子をうかがってみる。昨夜の塩の山が崩れてみじん。薄陽の射した板塀。他人様の家は怖い。牛と云う文字が、急に眼の中に寄って来て、犇《ひしめ》くと云う文字に見えて来る。ああ私には絶好の機会と云うものがない。私は若い、若いから機会をつかみたいのだ。
ちもとの裏口からはいって行く。台所の若い男がくすりと笑った。逆毛をたてた大きい耳かくしの髪がおかしいのかも知れない。流行と云うものは私には少しも似合わないのだけれども、やっぱり当世の真似はしてみたくなる。
女中部屋からのぞいている顔。猿のように皺《しわ》だらけのお上さんが、可もなし不可もなしと云った顔つきで、「まア、働いてごらん」と至極あっさりしている。
持ちものは風呂敷包み一つ。まず朝食に、丼《どんぶり》いっぱいの御飯にがんもどきの煮つけ一皿。ああ嬉しくて私は膝《ひざ》をつきそうにあわててしまう。
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恋などとはたかのしれたものだ
散る思いまことにたやすく
一椀の飯に崩折れる乞食の愉楽
洟水《はなみず》をすすり心を捨てきる
この飯食うさまの安らかさ
これも我身なり真実の我身よ
哀れすべてを忘れ切る飢えの行
尾を振りて食う今日の飯なり。
無宿者の歩みつく道
一面の広野と化した巷の風
ああ無情の風と歎《なげ》く我身なり。
[#ここで字下げ終わり]
脂の浮いた、どろどろに浸《し》みついた牛肉の匂い。吐気が来そうだ。女中達は全部そろえば八人になるのだそうだけれど、五人が通いで、ここに住み込んでいるのは三人。みなどの顔も大したことではない。耳かくしはおかしいと云うことで、さっそく髪結さんに連れて行って貰う。いちょうがえしに結うのだそうだ。私はまだ桃割れの似合う若さだのに、いちょうがえしでなければならないときいてがっかりしてしまう。
かたねりの白粉も買わなければならない。何しろ、お風呂へ行って、首だけ白くつけると云う不思議さ。一緒に風呂へ行った澄さんと云うのが、御園白粉が一番いいと教えてくれたけれど、もういちょうがえしに結って、金はみんな出してしまったので、白粉は二三日借りる事にする。
夕方から女中部屋は大変なにぎわいなり。
赤ん坊に乳を呑ませている女もいる。みんな二十五六にはなっていそうな女ばかり。私が肩あげをしていると云うので、こそこそと笑いものになる。お芳さんから借りた着物のゆき[#「ゆき」に傍点]が長いので、その説明をしようと思ったけれどめんどう臭くなってやめる。どんぐりの背くらべの身すぎ世すぎでいて、この仲間の意地の悪さに腹が立つ。
朝、私をみてくすりと笑った料理番はヨシツネさんと云った。料理場へ火さげを持って火を取りに行くと、「お前さん、西洋まげより、その髪の方がずっといいよ」と云ってくれた。そして、「ほい、みかん食べな」と云って小さいみかんを二つ投げてくれる。
ヨシツネさんは定九郎《さだくろう》みたいな感じ、与市兵衛《よいちべえ》を殺しそうな凄味のある顔をしている。
二三日は座敷へも出ないで使い奴《やっこ》だ。火を運ぶ。下足も取る。ビールや酒も運ぶ。十二時がかんばん。足がつっぱって来る程、へとへとに疲れてしまう。枯れすすきや、かごの鳥の唄が賑《にぎ》やかだ。ああ、これでは私の行末は牛の犇きと少しも変らない。
一行の詩一つ書く気力も失せそうだ。あんなに飯をたべたいと望みながら……。夕食は、丼いっぱい山盛りの飯に、いかの煮つけ。ありがたやと食べながら、パンのみに生きるに非ずの思いが湧く。
誰も私の存在なぞ気にかけてくれる人もないだけに安楽な生活なり。ヨシツネさんは馬鹿に親切なり。
「お前さん、こんなとこ始めてかい?」
「ええ……」
「亭主はあるのかい?」
「いいえ」
「生れは何処だ?」
「丹波の山の中です」
「ほう、丹波たア何処だい?」
さア、私も知らない。黙って煮込場を出て行く。まず、
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