い。私がこのひとの二階へ行って寝たところで、私の人生に大したこともなさそうだ。このひとと一緒になったところで、私はすぐ別れてしまうに違いない。ヨシツネさんは平和なひとだ。

(十二月×日)
 歳末売出しの景気だけは馬鹿にそうぞうしい。――私はやっと客の前へ出るようになった。チップはかなりあるけれど、時々女たちに意地悪をされて取られてしまう事もある。ヨシツネさんが云った。
「お前、馬鹿に本を読むのが好きだな。あんまり読むと近眼になるよ」
 私はおかしくて仕方がない。もう、とっくに近眼になっているのだもの。稲毛のお芳さんから手紙。思わしくないので、正月前に、また東京へ戻りたい由。子供は風邪ばかり引いて、百日|咳《ぜき》のひどいのにかかっている。お芳さんは大工さんと夫婦になる由なり。どうにもくってゆけないので、連子でいいと云われたのを倖《さいわ》い、大工さんと一緒になって住むから、勉強するのだったら、一部屋位は貸して上げると景気のいい話だ。
 私は、正月には野村さんのところへ行きたい。野村さんは、早く一緒になろうと云ってくれている。あのひとも貧乏な詩人。
 ここで始めて紫めいせんを二反買う。金五円也。暮までには、裾まわしと、羽織の裏が買えそうだ。
 今日は髪結さんのかえり、ヨシツネさんに逢った。また話があると云う。ヨシツネさんは突然「これはプラトニックラブだよ」と云った。私はおかしくなって、くすくす笑いこける。
「プラトニックラブってなによ?」
「惚れてると云うことだろう……」
 私は何と云うこともなく、何も、野村さんでなくてもいいと思った。ヨシツネさんと一緒になってもいいような気がした。寒いのでミルクホールにはいる。
 大きなコップに牛乳を波々とついで貰う。ヨシツネさんは紅茶がいいと云う。今日は私が御馳走する。ケシの実のついたアンパンを取って食べる。紫色のあんこが柔らかくて馬鹿にうまい。金二十銭也を払う。
 ヨシツネさんは、月々五六十円位にはなるのだそうだ。子供が出来てもやってゆけない事はないと云う。私は、お芳さんの汚ない子供を思い出してぞっとしてしまう。
「私は、お嫁さんになる気はないのよ。勉強したいのよ。ヨシツネさんはもっと若い、十七八のお嫁さんがいいでしょう……」
 ヨシツネさんは黙っていた。しばらくして、「何の勉強だ」と訊く。
 何の勉強だと云われて私は困る。
「私は女学校の先生になりたいのよ」
 ヨシツネさんは妙な顔をしていた。私も妙な気がした。何だか、罪を犯したようなやましい気になる。
 夕方から雨。ヨシツネさんは馬鹿にていねいだ。プラトニックラブと云った顔が、急に中学生のように見えて来る。
 澄さんの客に呼ばれて、随分酒をのまされた。少しも酔わない。客は帝大の学生ばかり。ヨシツネさんと同じ位だけれど、馬鹿に子供子供してみえる。
「このひとは、本ばかり読んでいるのよ」と、澄さんが云った。
「何の本を読んでいるンだ?」
 ずんぐりした、小さい学生が私に杯をさしながら尋ねた。私は「猿飛佐助よ」と大きい声で云った。みんなわアっと笑った。猿飛佐助がどうしておかしいのか私には判らない。酔ったまぎれに、紺屋高尾《こんやたかお》を唸《うな》ってみせる。みんな驚いている。
 学生とはそんなものだ。あんまり酔ったので、女中部屋へ引っこんだのだけれど、苦しくてもどしそうになる。ヨシツネさんがのぞきに来たのを幸い、洗面器を持って来て貰った。酢っぱいものがみんな出る。すべてを吐く。
「ヨシツネさん!」
「何だよ……」
「そこへつっ立ってないで、塩水でも持って来てよ」
 ヨシツネさんはすぐ塩水をつくって来てくれた。帯をとくと、五十銭玉がばらばらと畳にこぼれる。
「無理して飲む奴はないよ」
「うん、プラトニックラブだから飲んだのよ。あんた、そう云ったじゃないの……」
 ヨシツネさんが急にかがみこんで、私の背中をいつまでもなでてくれた。

        *

(十二月×日)
 火を燃やしたくなったので、から[#「から」に傍点]になった炭俵や、枯葉をあつめてどんど[#「どんど」に傍点]を燃やす。私はこうした条件のなかで生きる元気がない。少しもない。大切なものを探し出して燃やしてやりたくなる。部屋のなかへはいって、大切なものを探してみる。野村さんの詩の原稿を三枚ばかり持ち出して火の上にあぶってみる。焼けてしまえばこの詩は灰になるのだと思うと、憎さも憎しだけれども、何となく気おくれして、いけない事だと思い、またもとのところへしまう。
 私は何も出来ない。勇気のない女になりさがってしまっている。今朝、私たちは命がけであらそった。そして、男はしたいだけの事をして街へ行ってしまった。あとかたづけをするのは私なのだ。障子は破れ、カーテンは引きちぎれ、皿も茶碗も
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