る。一口坂の停留場前の三好野では、豆大福が山のようだ。三好野へはいって一皿十銭のおこわと豆大福を二つ買って、たっぷりと二杯も茶をのんで、私は壁の鏡をのぞいている。
 おたふくさまそっくりで、少しも深刻味がない。髪の毛はまるでかもじ屋の看板のように房々として、びんがたりないので、まげ[#「まげ」に傍点]がほどけかけている。世紀がふくらむごとに、大量に人がふえてゆく。悲劇の巣は東京ばかりでもあるまい。田舎の女学校では、ピタゴラスの定理をならい、椿姫《つばきひめ》の歌をうたい、弓張月を読んだむすめが、いまはこんな姿で、悄然《しょうぜん》と生きている。大福の粉が唇いっぱいにふりかかり、まるで子守女のつまみぐいの図だ。
 夜。また気をとりなおして童話の続きにかかる。風はますますひどくなって来た。酔っぱらいの学生が二階の廊下で女中をからかっている。時々声が小さくなる。誰かが二階から中庭へむけて小便をしていると見えて、女中がいけませんよッと叱っている。

[#ここから2字下げ]
罌粟《けし》は風に狂う
乾草《ほしくさ》の柩《ひつぎ》のなかに腹這う哀愁
頤《おとがい》の下に笑いを締め出して
じいと息を殺してみるのが人生
山の彼方《かなた》には雲ばかり
気の毒なやせ馬の雲に乗って
幸福なんか来ると思うのがまちがい
地獄におちよ生きながら
地獄におちて這いまわる
罌粟の範囲で散りかかる
強迫善意のごうもん台
運命のなかでの交渉
刺《とげ》だらけの青春
男が悪いのではない
みんな女が不器用だからだ
やたらに自由なぞあるものか
勝手にいじめぬく好奇心の勧工場
安物の手本ばかりが並んでいる
[#ここで字下げ終わり]

 夜が更けて来るにつれて風もしずかになり、あたり一面平野の如し。童話のなかの和製ハンネレが少しも動いてこない。第一、私はハンネレのような淋しい少女はきらい。それでも和製ハンネレを書かないことには、本屋さんはみとめてくれないのだ。一枚三十銭の原稿料とはいい気なものだ。十枚書いてまず三円。十日は満足に食べられます。
 えらい童話作家になろうとは思わぬ。死ぬまで詩を書いてのたれ死にするのが関の山。おかあさんごめんなさい。芙美子さんはこれきりなのよ。これきりで死んでしまうのよ。誰が悪いのでもない。なまける心はさらさらないのだけれど、どうにも一人だちの出来ぬ生れあわせです。貧乏は平気だけれど、死ぬのは痛いのよ。首をつるのも、汽車にひかれるのも、水に飛び込むのもみんな痛い。それでも死ぬ事を考えています。
 たった一度でいいから、おかあさんに、四五十円も送れる身分にはなりたいと空想して泣く事もあります。
 いろはと云う牛肉店の女中になろうかと思います。せめて、手紙の中へ、十円札の一枚も入れて送ってあげましょう。
 下宿住いはこりごり。収入の道もないのに、小さいお櫃の御飯がたべたいばっかりに下宿住いをしたら、こういん[#「こういん」に傍点]矢の如し。すぐ月日がたってゆくのには閉口|頓首《とんしゅ》。
 第一、何かものを書こうなぞとは妙なことです。でもね、私は小説と云うものを書いてみたいと思います。島田清次郎と云うひとも、あっと云うような長いものを書いたのだそうです。小説はむつかしいとは思いますけれど、馬がいななくような事を書けばいいのよ。一生懸命息はずませてね。
 おかあさん元気ですか。もう、じき住所はかえます。また、誰かといっしょになろうと思います。仕方がないんですよ。靴がやぶけて水がずくずくとはいって来るような厭な気持ちなのです。小説を書いたところでひょっとしたら大した事ではないかもしれません。いつも、何だって、つっかえされてがっかりすることばかりですからね。一人でいると張合いがないのです。
 自分で正しいと思う判断がまるきりつかない。自信がなくなると、人間はぼろくずのようになってしまう。はっきりと、これが恋だと思うような事をしたこともない。ただ、詩を書いている時だけが夢中の世界。
 下宿住いと云うものは、人間を官吏型にしてしまう。びくびくと四囲をうかがう。大した人間にはなれない。月末には蒲団を干して、田舎から来た為替を取りに行く。たったそれだけで下宿の月日は過ぎて行くのでしょう。私のことじゃないのよ。ここにいる学生達の事なの……。ハイネ型もいなければ、チエホフ型もいない。ただ、自分を見失ってゆくくんれんを受けるだけ。
 童話を書きあげて夜更け銭湯へ行く。

        *

(十月×日)
[#ここから2字下げ]
宵あかり 宵の島々静かに眠る
海の底には魚の群落
ひそやかに語るひめごと
魚のささやき魚のやきもち。
遠いところから落日が見える
地の上は紙一重の夜の前ぶれ
人間は呻《うめ》きながら眠っている
宵の島々 宵あかり
兵隊は故郷をはなれ

前へ 次へ
全133ページ中98ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング