生は故郷へかえる。
人ごとならずとささやきながら
人々は呻きながら生きる
この世に平和があるものか
岩おこしのべとべとの感触だ
人生とは何でしょう……
拷問のつづきなのよ
人間はいじめられどおし。
いつかはこの島々も消えてゆくなり
牛と鶏だけが生きのこって
この二つの動物がまじりあう
羽根のはえた牛
とさかをもった牛
角のはえた鶏
尻尾《しっぽ》のある鶏。
永遠なんぞと云うものがあるものか
永遠は耳のそばを吹く風なり
宵あかり 只島々は浮いている
乳母車のようにゆれている
考古学者もほろびてしまう……。
[#ここで字下げ終わり]
律法《おきて》なくば罪は死にたるものなり。ああアブラハムもダビデも如何《いか》にも遠い神である。小説とはどんな形で書くのかわからない。只、ひたすら空想するばかりだけでもないのだろう。罪を書く。描く。善は馬鹿々々しいと鼻をかむ。悪徳だけに心をもやす……。月日がたてば忘れられ消えてゆく罪。じっと眼をすえていると、何のまとまりもなく頭が痛くなって来る。私の肉体は、だんだん焼かれる魚のようにこうふん[#「こうふん」に傍点]して来る。誰かと夫婦にならなければ身のおさまりがつかなくなってしまう。
下宿屋は男の巣でありながら、まことに落書のエデンの園の如く、森々とこの深夜を航海している。
小説を書きたいと思いながら、何もかも邪魔っけでどうにもならない。雁《かり》が鳴いている。私は本当に詩人なのであろうか? 詩は印刷機械のようにいくつでも書ける。只、むやみに書けると云うだけだ。一文にもならない。活字にもならない。そのくせ、何かをモウレツに書きたい。心がその為《ため》にはじける。毎日火事をかかえて歩いているようなものだ。
文字を並べて書く。形になっているのかどうかはぎもん[#「ぎもん」に傍点]だ。これが詩と云うものであろうか。――恋草を力車に七車、積みて恋うらく、わが心はも。昔のえらい額田《ぬかだ》なにがしと云う女のひとがうたった歌も出鱈目《でたらめ》なのであろうか……。私はかいこのように熱心に糸を吐く。只、何のぎこうもなく、毎日毎日糸を吐く。胃のなかがからっぽになるまで糸を吐いて死ぬ。
一文にもならぬ事が、ふしあわせでもなければ、運の悪い者ときめてかかる事もない。希望のない航海のようなものだけれども、どこかに浮島がみえはしないかとあせるだけだ。
オニイルの鯨取りの戯曲を読んで淋しくなった。
本を読めば、本がすべてを語ってくれる。人の言葉はとらえどころがないけれども、本の中に書かれた文字は、しっかりと人の心をとらえてはなさない。
[#ここから2字下げ]
もうじき冬が来る
空がそう云った
もうじき冬が来る
山の樹がそう云った。
小雨が走って云いに来た
郵便屋さんがまるい帽子を被った。
夜が云いにきた
もうじき冬が来る
鼠が云いに来た
天井裏で鼠が巣をつくりはじめた。
冬を背負って
人間が田舎から沢山やって来る。
[#ここで字下げ終わり]
童謡をつくってみた。売れるかどうかは判らない。当にする事は一切やめにして、ただ無茶苦茶に書く。書いてはつっかえされて私はまた書く。山のように書く。海のように書く。私の思いはそれだけだ。そのくせ、頭の中にはつまらぬ事も浮んで来る。
あのひとも恋しい。このひともなつかしや。ナムアミダブツのおしゃか様。
首をくくって死ぬる決心がつけばそれでよろしい。その決心の前で、私は小説を一つだけ書きましょう。森田草平の煤煙《ばいえん》のような小説を書いてみたい。
夜更けて谷中《やなか》の墓地の方へ散歩をする。
きらめくばかりの星屑の光。なんの目的で歩いているのかはわからないけれども、それでも私は歩く。按摩《あんま》さんが二人、笛を吹いては大きく笑いながら行く。下界は地とすれすれに、もや[#「もや」に傍点]が立ちこめて秋ふけた感じだ。
石屋の新しい石の白さが馬鹿に軽そうに見える。私は泣いた。行き場がなくて泣いた。石に凭れてみる。いつかは、私も墓石になるときが来る。何時《いつ》かは……。私はお化けになれるものだろうか……。お化けは何も食べる必要がないし、下宿代にせめられる心配もない。肉親に対する感情。恩返しをしなければならないと云うつまらぬ苛責《かしゃく》。みんな煙の如し。
雨戸の奥で、石屋さんの家族の声がしている。まだ無縁な、誰の墓石になるとも判らない、新しい石に囲まれて、石屋さんは平和に眠っている。朝になれば、また槌《つち》をふるって、コツコツと石を刻んで金に替えるのだ。
いずれの商売も同じことだ。
石に腰をかけていると、お尻がしんしんと冷い。わざと孤独に身を沈めたかっこうでいると、涙があとからあとから溢れこぼれる。
平和に雨戸を閉ざした横町が奥深くつづいている。
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