楽坂の床屋さんで水をのませて貰う。
今日は縁日で夕方から賑やかなのだそうだ。
きれいな芸者が沢山歩いている。しのぶ売りも金魚屋も出ている。今日は水中花を売るおばさんの隣りに場所割りがきまる。
店を出して、私は雨傘を出してゴザの上に坐る。何とも暑い夕陽だ。夕陽は何処から来るのだろう。じりじりと照りつけるなぎ[#「なぎ」に傍点]のような暑さ。人通りが馬鹿に多いけれど、パンツも沓下《くつした》もステテコもなかなか売れそうにもない。オッカサンは下谷までお使い。
市松の紙の屋根を張った虫売りが前の金物屋の店さきに出た。じょうさい屋が通る。
みがきこんだおかもち[#「おかもち」に傍点]をさげたてぬぐい浴衣の男が、自転車に片足かけて坂をすべってゆく。
華やかな町の姿だ。一人だって、雨傘をさしてしゃがんでいる女には気にもとめない。
[#ここから2字下げ]
おえんまさまの舌は一丈
まっかな夕陽
煮えるような空気の底
哀しみのしみこんだ鼻のかたち
その向うに発射する一つのきらめき
別に生きようとも思わぬ
たださらさらと邪魔にならぬような生存
おぼつかない冥土《めいど》の細道から
あるかなきかのけぶり けぶり
推察するようなただよいもなく
私の青春は朽ちて灰になる、
本当の事を云って下さい
只それが知りたいだけだ
人非人と同様の土ぼこりの中に
視力の近い虹《にじ》の世界が
いっぱい蝸牛《かたつむり》をふりおとしている
一つ一つ転げおちて草の葉の露と化して
茫《ぼう》の世界に消えてゆく
悪企みは何もないもろい生き方
血と匂いを持たぬ蝸牛の世界
ああ夢の世界よ
夢の世のぜいたくな人達を呪《のろ》う
何のきっかけもない暑い夕陽の怖ろしさ。
[#ここで字下げ終わり]
私はぱりぱりに乾いてゆく傘の下で、じいっと赤い夕陽を眺めていた。
*
(九月×日)
飲食店にはいって、ふっと、箸立《はした》ての汚ない箸のたばを見ると、私には卑しいものしかないのを感じる。人の舌に触れた、はげちょろけの箸を二本抜いて、それで丼飯《どんぶりめし》を食べる。まるで犬のような姿だ。汚ないとも思わなくなってしまっている。人類も何もあったものではない。只、モウレツに美味《うま》いと云う感覚だけで鰯《いわし》の焼いたのにかぶりつく。小皿のなかの水びたしの菜っぱの香々。
いつまでも私は不安だ。卑しくて犬のように這いずりまわっているくせに、もう、死んでしまいたいと思うくせに、誰かをだましてやろうと思っているくせに、私には何の力もない。袖口も、襟《えり》もとも垢《あか》でぴかぴか光っている。いっそ裸で歩きたい位だ。
食堂を出て動坂《どうざか》の講談社に行く。おんぼろぼろの板塀《いたべい》のなかにひしめく人の群をみていると、妙にはいりそびれてしまう。講談社と云うところはのみの巣のようだと思う。文明も何もない。只、汚ないぼろぼろの長い板塀にかこまれている。昨夜一晩で書きあげた鳥追い女と云う原稿が金に替るとは思われなくなってくる。浪六《なみろく》さんのようなものを書くにはよほど縁の遠い話だ。
私はねえ、下宿料が払えないのよ。この二三日、遠慮して下宿の御飯をなるべく食べないようにしているのよ。講談なんて書けもしないくせに、浪六さんを手本にして、眼を真赤にして書いてみたけれど、結局は一文にもならぬ。赤い郵便自動車が行く。とても幸福そうだ。あのなかには、沢山沢山為替がはいっているに違いない。何処から誰に送る為替か知らないけれど、一枚や二枚、ひらひらと舞い落ちて来ないものかしら。
小石川の博文館へ行く。
どうれと、玄関番が出て来そうだ。おばけ屋敷のようだ。田舎医者の待合室みたいな畳敷きの待合室に通される。いかにも疲れたような人達が思い思いに待っている。そのひとたちがじろじろと私を見ている。まるで子守っ子のような肩あげのある私を不思議そうに見ている。まさか鳥追い女と云う講談を書いているとは思うまい。
私は一葉《いちよう》と云う名前がとてつもなく気に入っている。尾崎紅葉もいい。小栗風葉もいい。みんな偉いひとには「葉」の字がつくので、私も講談を書くときは五葉位にしてみようかと考えた。色あせた夏羽織を着た背の高いひとが出て来た。私は胸がどきどきしてくる。来なければよかったと思う。
いずれ見てからお返事をしますと云う事で、私のみっともない原稿はみもしらぬ人の手に渡ってしまった。急いで博文館を出て、深呼吸をする。これでもまだ私は生きてるのだからね。あんまりいじめないで下さい。神様! 私は本当は男なんかどうでもいいのよ。お金がほしくってたまらないのよ。高利貸と云う人間はどこの町に住んでいるのだろう。植物園のなかにはいって行く。
きれいな夕陽。つるべ落しの空あい
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