とも
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長い行列のなかに立っていると、女と云うものは旗のように風まかせになって来る。早いはなしが、この長い行列の女たちだって。ただいい暮しさえあれば、こんな行列には立たなくても済むのだ。何か職がほしいと云う事だけでしばられているにすぎない。
失業は貞操のない女のように荒《すさ》んでむちゃくちゃになって来る。たった三十円の月給が身につかないとは何とした事であろう。五円もあれば、秋田米のぱりぱりが一斗かえる。ほっこりとたきたてに、沢庵《たくあん》をそえてね。それだけの願いなのよ。何とかどうにかなりませんか。
行列は少しずつちぢまり、笑って出て来るもの、失望して出て来るもの、扉の前に立っている私達は、少しずついらいらとして来る。
菜種問屋の、たった二人ばかり入用の女事務員がざっと百人あまりも並んでいる。やっと私の番になった。履歴書と引きくらべて、まず、人品骨柄、器量がいいか悪いかできまる。しばらく晒《さら》しものになって、ハガキで通知をしますと云う返事。こんなのは毎度のことで馴れてはいるけれど何とも味気ない。ふしあわせな生れつきだと思う。飛びきりに美しいと云う事は、それだけでもけっこうな事であろう。私には何もない。ただ丈夫な身体があると云うだけ。
生きていて、まず、何とか生活してゆくと云う人間の大切ないとなみが、いつも失敗むざんだ。堕落してゆくに都合のいいレディーメイド。やとい主は烱眼《けいがん》むるいだ。こんな女なぞはやとってくれない。
だけど、もし、やとってもらって、三十円も月給を貰えたら、私は血へどを吐くほど一生懸命働きたいのだけど……。もう、お天気の日を選んで夜店を出すのは厭になった。
ほんとに厭な事だ。土ぼこりをいっぱい吸って眼の前に立ちどまる人をそっと見上げて笑うしぐさにあきあきした。卑屈になって来る。私はまず何としても広いロシヤへ行きたいね。旦那《バーリン》、旦那《バーリン》。ロシヤは日本よりか広いに違いない。女の少ない国だったらどんなにいいだろう。
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インキを買ってかえる。
何とかしておめもじいたしたく候。
お金がほしく候。
ただの十円でもよろしく候。
マノンレスコオと、浴衣と、下駄と買いたく候。
シナそばが一杯たべたく候。
雷門《かみなりもん》助六をききに行きたく候。
朝鮮でも満洲へでも働きに行きたく候。
たった一度おめもじいたしたく候。
本当にお金がほしく候。
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手紙を書いてみるがどうにもならぬ。あのひとにはもうお嫁さんがあるのだ。ただ、なぐさみに歌の文句を書いてみるだけ。
夜。
眠れないので、電気をつけて、ぼろぼろのユジン・オニイルを読む。家主の大工さんが、夜どおし、ろくろをまわして、玩具《おもちゃ》のコマをつくっている。どのひとも、夜も日もなく働かねば食えない世の中なり。蚊がうるさいけれど、蚊帳のない暮しむきなので、皿におがくずを入れていぶす。へやの中がいぶる。それでも蚊がいる。丈夫な蚊だ。うるさい蚊だ。オッカサンに浴衣を買ってやりたいと思うけど仕方がない。
(八月×日)
爽やかな天気だ。まばゆいばかりの緑の十二社。池のまわりを裸馬をつれた男が通っている。馬がびろうどのような汗をかいている。しいんしいんと蝉が鳴きたてている。
氷屋の旗がびくともしない。
オッカサンも私も背中に雑貨を背負って歩いている。全く暑い。東京は暑いところだ。
新宿までの電車賃をけんやくして、鳴子坂の三好野で焼団子を五|串《くし》買ってたべる。お茶は何度でもおかわりして、ああ一寸だけしあわせ。
オニイルは名もない水夫で、放浪ばかりしていて、子供の時は手におえぬ悪童で、大きくなって、ボナゼアリス行きの帆船に乗りこんで粗暴な冒険にみちた生活をしたのだそうだ。偉くなってしまえば、こんな身上話もああそうなのかと思う。私も芝居を書いてみようかな。きそう天外な芝居。それとも涙もなくなる奴。オニイルだって、いつも悲愴《ひそう》な時ばかりではなかったであろう。
時には鼻唄まじりにいいごきげんな時もあったに違いない。
よろよろと荷をかついで、小さいべっぴんさんは暑い街を歩く。どうでもいいのだ。もうやぶれかぶれなのだ。はっきりと路の上にうつした影はひきがえるのように這《は》っている。
哀れなオッカサンが何故《なぜ》私を生んだのだろう。私生児と云う事はどうでもいい事だけれど、オッカサンには罪はない。何の咎《とが》める事があろう。世界のどこかのおきさきさまだって私生児を生む事もある。世の中と云うものはそんなものだ。女は子供をうむために生きている。むずかしい手つづきをふむことなんか考えてはいない。男のひとが好きだから身をまかせてしまうきりなのだ。
神
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