。私もはずみを食ってまっさかさま。憂鬱な空想の花火。ああ講談なんて馬鹿なことを考えたものだ。
 木蔭《こかげ》で、麦藁《むぎわら》帽をかぶった、年をとった女のひとが油絵を描いている。仲々うまいものだ。しばらく見とれている。芳烈な油の匂いがする。このひとは満足に食べられるのかしら。芝生に子供が遊んでいる絵だ。四囲には人っ子一人いないけれど、絵のなかでは、二人の子供がしゃがんでいる。絵描きになりたいと思う。
 白い萩《はぎ》の花の咲いているところで横になる。草をむしりながら噛《か》んでみる。何となくつつましい幸福を感じる。夕陽がだんだん燃えたって来る。
 不幸とか、幸福とか、考えた事もない暮しだけれど、この瞬間は一寸いいなと思う。しみじみと草に腹這っていると、眼尻に涙が溢《あふ》れて来る。何の思いもない、水みたいなものだけれど、涙が出て来るといやに孤独な気持ちになって来る。こうした生きかたも、大して苦労には思わないのだけれど、下宿料が払えないと云う事だけはどうにも苦しい。無限に空があるくせに、人間だけがあくせくしている。
 夕焼の燃えてゆく空の奇蹟《きせき》がありながら、ささやかな人間の生きかたに何の奇蹟もないと云うことはかなしい。別れた男の事をふっと考えてみる。憎い奴だと思った事もあったけれど、いまはそうでもない。憎いと思うところはみんな忘れてしまった。
 いまは眼の前に、なまめかしい、白い萩が咲いているけれど、いまに冬が来れば、この花も茎もがらがらに枯れてしまう。ざまをみろだ。男と女の間柄もそんなものなのでしょう。不如帰《ほととぎす》の浪子さんが千年も万年も生きたいなんて云ってるけれど、あまりに人の世を御ぞんじないと云うものだ。花は一年で枯れてゆくのに、人間は五十年も御長命だ。ああいやな事だ。
 私は天皇さまにジキソをしてみる空想をする。ふっと私をごらんになって、馬鹿に私が気に入って、いっしょにいいところにおいでとおっしゃるような夢をみる。夢は人間とっておきの自由だ。天皇さまに冷酒とがんもどきのおでんをさしあげたら、うまいものだねとおっしゃるに違いない。私はなぜ日本に生れたのだろう。シチリヤ人と云うのがあるそうだ。音楽が大変好きなのだそうだ。私はシチリヤ人がどんな人種なのか見たことがない。
 不意にカナカナが啼きたてた。夕焼がだんだん妙な風に蒼《あお》ずんで来ている。

(九月×日)
 夜が明けかけて来たけれど、どうにもならない。
 昨夜は蒲団を売る事にきめて安心して眠ったのだけれど、こう涼しくては蒲団を売るわけにもゆかない。葛西《かさい》善蔵と云うひとの小説みたいにどうにもならなくなりそうだ。私は別に酒が飲みたいよく[#「よく」に傍点]もないけれど、生きようがないではありませんか。
 らっきょうと、甘いうずら豆が食べたい。キハツ油も買いたい。朝がえりの学生があると見えて、スリッパを鳴らして二階へ上ってゆく足音がする。ここから吉原まではさほどの道のりでもあるまい。吉原では女をいくら位で買ってくれるものかと思案してみる。
 さて、朝になれば、いよいよまた活動出発の用意。雀がよく鳴いている。上々の天気。硝子《ガラス》窓から柿の葉が覗《のぞ》いている。台所の方で小さい唄声がきこえる。私はふっと思いついて、この下宿の女中になれぬものかと思う。客部屋から女中部屋に転落してゆくだけだ。給料はいらない。ただ食べさせてもらって雨露をしのげればいい。この部屋の先住の英文科の帝大生が壁にナイフで落書をしている。エデンの園とは? 私も知らない。この気取りやさんは、落第をして郷里に戻って行ったのだそうだけれども、私には戻ってゆく故郷もない。
 ダダイズムの詩と云うのが流行《はや》っている。つまらない子供だましみたいな詩。言葉のあそび。血が流れていない。捨身で正直なことが云えない。只、やぶれかぶれだけ。だから私も作ってみようと眼をつぶって、蝙蝠傘《こうもりがさ》と烏《からす》と云う詩をつくってみる。眼をつぶっていると、黒いものからぱっぱっと聯想《れんそう》がとぶ。おかしなことばかり考える。まず、第一に匂いの思い出が来る。それから水っぽい涙が鼻をならしに来る。わにに喰いつかれたような、声も出ない悲鳴が出て来る。私の乳房が千貫の重さで、うどん粉の山のようにのしかかっている。手の爪に白い星が出ている。いい事があるのだそうだけれど信じない。シーツなぞ長いこと敷いたことのない敷蒲団に、私はなまぐさく寝ている。これが本当のエデンの園です。蒲団は芝居ののぼりでつくった、まことにしみじみとするカンヴァスベッド。

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感化院出の誰の誰
許して下さいと云う言葉を日にいくど
頂戴とか下さいとか
雨のなかに立って物乞う姿
不安な呻吟《しんぎん》
世の誰と
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