、室生犀星《むろうさいせい》と云うひとに似ている。
 路地をはいってゆくと、湯がえりの階下のおばさんに逢った。おばさんは洗濯物を夜干していた。
「部屋代、何とかして下さいよ。本当に困るンですからね……」
 はいはい、私だって本当に困るンですよ。じっさいのところ、私だって苦労しつづけたのですよと云いたかった。
 明日は玉の井に身売りでもしようかと思う。

(五月×日)
 地虫が鳴いている。
 ぷちぷち音をたてて青葉が萌《も》えてゆくような気がする。夜中だ。おいなりさんを売りに来る。声が近くになり、また遠くなってゆく。狐寿司はうまいだろうな。甘辛い油揚げの中にいっぱいつまった飯、じとじと汁がたれそうなかんぴょうの帯。
 階下ではばくちが始っている。

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魚の骨の骨
水流に滴《したた》る岸辺の草
魚の骨の骨
蕨色《わらびいろ》の雲間に浮ぶ灰
今日《こんち》はと河下のあいさつ
悶《もん》と云う字 女の字
悶は股《また》の中にある
嫋々《じょうじょう》と匂う股の中にある
悶と云う字よ。

魚の骨の骨
弓をひいて奉る一筆
魚の骨の骨
還《また》かえってくる情愛
愁《しゅう》と云う字 その字
天下の人々が口にする
腸《はらわた》のなかにある
愁いの海に沈む舟よ。

一切無我!

   ○

この街にいろいろな人が集ってくる
飢えによる堕落の人々
萎縮《いしゅく》した顔 病める肉体の渦
下層階級のはきだめ
天皇陛下は狂っておいでになるそうだ
患っているもののみの東京!

一層|怖《おそ》ろしい風が吹く
ああ、何処《どこ》から吹く風なのだ!
情事ははびこる かびが生える
美しい思想とか
善良な思想と云うものがない
おびえて暮している
みんな何かにおびえている。

隙間から見える蒼《あお》ざめたる天使
不思議な無限……
神秘なことには陛下は狂っておいでになると云う。
貧弱な行為と汎神論《はんしんろん》者の鍋《なべ》
りくぞくと集ってくる人々
何かを犯しに来る人々の群
街の大時計も狂いはじめた。
[#ここで字下げ終わり]

(五月×日)
 雨。
 ユーゴーの惨めな人々を読む。
 ナポレオンは英雄で、ワーテルローの背景をすぐ眼に浮べるほど立派なおかたと思っていたのだけれど、共和制をくつがえして、ナポレオン帝国をたてた矛盾が、変に気にかかって来る。こうした世の中で、たった一片のパンを盗んだ男が十九年も牢《ろう》へはいっている事も妙だ。
 たった一片のパンで、十九年の牢獄生活に耐えてゆく、人間も人間。世の中も世の中なりか。
 駄菓子屋へ行って一銭の飴玉《あめだま》を五ツ買って来る。
 鏡を見る。愛らしいのだが、どうにもならぬ。
 急に油をつけて髪をかきつけてみる。十日あまりも髪を結わないので、頭の地肌がのぼせて仕方がない。
 脚がずくずくにふくらんできた。穴があく。麦飯をどっさりたべるといい。どっさり食べると云う事が問題だ。どっさりとね……。
 ナポレオンのような戦術家が生れて、どいつにもこいつにも十年以上の牢獄を与える。人民はまるでそろばん玉みたいだ。不幸な国よ。朝から晩まで食べる事ばかり考えている事も悲しい生き方だ。いったい、私は誰なの? 何なのさ。どうして生きて動いているんだろう。
 うで玉子飛んで来い。
 あんこの鯛焼《たいや》き飛んで来い。
 苺《いちご》のジャムパン飛んで来い。
 蓬莱軒《ほうらいけん》のシナそば飛んで来い。
 ああ、そばやのゆで汁でもただ飲みして来ようか。ユーゴー氏を売る事にきめる。五十銭もむつかしいだろう……。
 良心に必要なだけの満足を汲《く》み取りか、食慾に必要なだけの金を工面して生きてゆくことにも閉口トンシュでございます。
 ナポレオン帝政下の天才について。
 或る薬屋が軍隊のために、ボール紙の靴底を発明し、それを革として売出して四十万リーブルの年金を得たのだそうだ。或る僧侶《そうりょ》が、只、鼻声だと云うために大司教となり、行商人が金貸しの女と結婚して、七八百万の金を産ませた。十九世紀のさなかにある、フランスの修道院は、日に向っている梟《ふくろう》に過ぎないなんて……三度の革命を経てパリーはまた喜劇のむしかえし。
 私は今日はこれから、この偉大なユーゴーの「みぜらぶる」と別れなければならない。
 天才とは……ちっぽけな日本にはございません。気違いがいるだけ。だあれも、天才なんて見たことがない。天才とはぜいたく品みたいなものだ。日本人は狂人ばかりを見馴れて葬ることしか出来ない。
 おいたわしや、気が狂ったと云う陛下も、本当は天才なのかもしれない。くるくるとおちょくごをお巻きになって、眼鏡にして臣下をごらんになったと云う伝説ごとだけれど、哀れな陛下よ。あなたは哀《かな》しいばかりに正直な天才です。
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