終日雨なり。飴玉と板昆布《いたこんぶ》で露命をつなぐ。
(五月×日)
蒼馬を見たりを生田氏より送りかえして貰う。日光にさらす。陽にあたると、紙はすぐくるりと弾《は》ねあがる。
詩は死に通じると云うところでしょうね。ええ御返事がないところはひきょうみれん……。
「少女」と云う雑誌から三円の稿料を送って来る。半年も前に持ちこんだ原稿が十枚、題は豆を送る駅の駅長さん。一枚三十銭も貰えるなんて、私は世界一のお金持ちになったような気がした。――詩集なぞ誰だってみむきもしない。
間代二円入れておく。
おばさんは急に、にこにこしている。手紙が来て判を押すと云う事はお祭のように重大だ。三文判の効用。生きていることもまんざらではない。
急にせっせと童話を書く。
みかん箱に新聞紙を張りつけて、風呂敷を鋲《びょう》でとめたの。箱の中にはインクもユーゴー様も土鍋も魚も同居。あいなめ一尾買う。米一升買う。風呂にもはいる。
豚の王様、紅《あか》い靴、どっちも六枚ずつ。風呂あがりのせいか、安福せっけんの匂いが、肌にぷんぷん匂う。何と云う事もなく、せっけんの匂いをかいでいたら、フランスと云う国へ行ってみたいなと思う。
日本よりは住み心地のいいところではないかしら……。夢にみるほど恋いこがれてみたところで仕方がない。猫が汽車に乗りたいと思うようなものだ。
私のペンは不思議なペン。
私は地図のようなものを書いてみる。まず、朝鮮まで渡って、それから、一日に三里ずつ歩けば、何日目には巴里《パリー》に着くだろう。その間、飲まず食わずではいられないから、私は働きながら行かなければならない。
一寸《ちょっと》疲れて来る。
夜、あいなめを焼いて久しぶりに御飯をたべる。涙があふれる。平和な気持ちになった。
(五月×日)
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なまぐさい風が吹く
緑が萌え立つ
夜明のしらしらとした往来が
石油色に光っている
森閑とした五月の朝。
多くの夢が煙立つ
頭蓋骨《ずがいこつ》が笑う
囚人も役人も 恋びとも
地獄の門へは同じ道づれ
みんな苛《いじ》めあうがいい
責めあうがいい
自然が人間の生活をきめてくれるのよ
ねえ そうなんでしょう?
[#ここで字下げ終わり]
夢の中で、わけもわからぬひとに逢う。宿屋の寝床で白いシーツの上に、頭蓋骨の男が寝ている。私をみるなり手をひっぱる。私はちっとも怖わがらないで、そばへ行って横になった。私は、なまめかしくさえしている。
眼がさめてから厭《いや》な気持ちだった。
寝床の中で詩を書く。
納豆売りのおばさんが通る。あわてて納豆売りのおばさんを二階から呼びとめて、階下へ降りてゆくと、雨あがりのせいか、ぱあっと石油色に道が光っている。まだあまり起きている家もない。雀だけが忙《せ》わしそうに石油色の道におりて遊んでいる。何処からか、鳩も来ている。栗の花が激しく匂う。
納豆に辛子をそえて貰う。
私はこのごろ、もう自分の事だけしか考えない。家族のある、あたたかい家庭と云うものは、何万里もさきの事だ。
こころのなかで、ひそかに、私は神様を憎悪する。こころやすく死んでしまいたいと唇《くち》にするような女がいる。それが私だ。本当に死にたいなんて考えないのだけれど、私はまるで、兎がひとねむりするみたいに、死にたいと云うことをこころやすく云ってみる。それで、何となく気が済むのだ。気が済むと云う事は一番金のかからない愉しみだ。
死ぬと云えば、すぐ哀しくなってきて、何となくやりきれなくなる。
何でも出来るような気がしてくる。勇気で頭が風船のようにふくらんで来る。
昼から万朝報に行く。
まだ係りのひとが来ていないと云うので、社の前の小さいミルクホールで牛乳を一杯飲む。人力車が行く。自動車が行く。自転車が行く。お昼なので、赤い塗りの箱を山のように肩にかついで、そばやが行く。かあっと照りつける往来を見ていると、肺が歌うなぞと云う詩を持ちあるいている自分が厭になって来た。誰も知らないところで、一人でもがいている必要はない。第一、大した駄作で、いまどき、肺のことなぞ誰も考えているものか……。空気を吸うことなぞどうでもいいのだ。
ああ、金さえあれば、千頁の詩集を出版してやりたい。友達もない、金もない、只、亀の子のように、のこのこ日向《ひなた》を歩きまわっている。まるで私は乞食のような哀れさだ。だれもめぐんでなんかくれない。洟《はな》もひっかけやしない。ああ、わっと云うような景色のなかからお札は降って来ないかな。千頁の詩集を出してやる! 題は男の骨、もっとむざんな題でもいい。
名もない女の詩なぞ買ってもらわなくてもいい。いまに千頁の詩集を出版しましょう。まるで仏壇のような金ピカ詩集! でこんでこんに塗りたくって、
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