風が吹いた。
 四丁目で、コック風な男が、通りすがりの人に広告マッチを一つずつくれている。私も貰った。後がえりして二つも貰った。
 ものを書いて金にしようなぞと考えた事が、まるで夢みたいに遠い事に思える。表通りの暮しは、裏通りの生活とはまるきり違うのだ。十銭の牛飯も食えないなんて……。

(三月×日)
 ハイネとはどんな西洋人か知らない。
 甘い詩を書く。
 恋の詩も書く。ドイツのお母さんの詩も書く。そして詩が売れる。生田春月と云うひとはどんなおじさんかな……。ホンヤクと云う事は飯を煮なおして、焼飯にする事かな。ハイネと生田春月はどんなカンケイなのか知らないけれど、本屋の棚にハイネが生れた。ぽつんと立っている。
 私は無政府主義者だ。
 こんなきゅうくつな政冶なんてまっぴらごめんだ。人間と自然がたわむれて、ひねもす生殖のいとなみ……それでよいではございませんか。猫も夜々を哀れにないて歩いている。私もあんなにして男がほしいと云って歩きたい。
 箒《ほうき》で掃きすてるほど男がいる。
 婆羅門《バラモン》大師の半偈《はんげ》の経とやら、はんにゃはらみとは云わないかな……。
 蛆《うじ》が湧《わ》くのだ。私の躯に蛆が湧くのだ。
 朝から水ばかり飲んでいる。盗人にはいる空想をする。どなたさまも戸締りに御用心。いまのところ、私は立派な無政府主義者を自任している。ひどいことをしてみせようと思っている。
 夜。牛めしを食べて、ロート眼薬を買う。

(五月×日)
 夜、牛込の生田|長江《ちょうこう》と云うひとをたずねる。
 このひとはらい[#「らい」に傍点]病だと聞いていたけれど、そんな事はどうでもいい。詩人になりたいと云ったら、何とか筋道をつけてくれるかもしれない。
 私はもう七十銭しか持っていないのだ。
 蒼馬《あおうま》を見たりと云う題をつけて、詩の原稿を持ってゆく。古ぼけた浪人のいるような家だ。電燈が馬鹿にくらい。どんなおばけが出て来るかと思った。
 部屋の隅っこに小さくなっていると、生田氏がすっと奥から出て来た。何の変哲もない大島の光った着物を着ている、痩《や》せた人だった。顔の皮膚がばかにてらてら光っている。
 声の小さい、優しいひとであった。
 何も云わないで、原稿を見ていただきたいと云ったら、いま、すぐには見られないと云う。
 私は七十銭しか持っていないので、躯中がかあと熱くなる。
「どんなひとの詩を読みましたか?」
「はい、ハイネを読みました。ホイットマンも読みました」
 高級な詩を読むと云う事を、云っておかないと悪いような気がした。だけど、本当はハイネもホイットマンも私のこころからは千万里も遠いひとだ。
「プウシュキンは好きです」
 私はいそいで本当の事を云った。
 あなたも御病気で悲惨のきわみだけれど、私も貧乏で、悲惨のきわみなのです。四百四病の病より、貧よりつらいものはないと、うちのおっかさんが口癖に云います。だから、私はころされた大杉|栄《さかえ》が好きなのです。
 広い部屋。暗い床の間に切り口の白い本が少し積み重ねてある。シタンの机が一つ。暑くるしいのに障子が閉めてある。傘のない電燈が馬鹿にくらい。
 遠くに離れて坐っているので、生田さんは馬鹿に細っこく見える。四十位のひとだと思う。
 何と云う事もなく、生田春月と云うひとを尋ねるべきだったと思う。婆やさんみたいなひとがお茶を持って来たので、私はがぶりと飲んだ。
 病気のひとをぶじょくしてはいけないと思った。
 詩の原稿をあずけて帰る。
 どうにかなるだろう。どうにもならないでもそれきり。
 上野広小路のビールのイルミネーションが暗い空に泡《あわ》を吹いている。宝丹の広告燈もまばゆい。
 おしる粉一ぱいあがったよのだみ声にさそわれて、五銭のおしる粉を食べた。夜店が賑《にぎ》やかだ。
 水中花、ナフタリンの花、サスペンダー、ロシヤパン、万能大根刻み、玉子の泡立器、古本屋の赤い表紙のクロポトキン、青い表紙の人形の家。ぱらぱらと頁をめくると、松井須磨子の厚化粧の舞台姿の写真が出て来る。
 福神漬屋の酒悦《しゅえつ》の前は黒山のような人だかり。インド人がバナナのたたきうりをしている。
 十三屋の櫛屋《くしや》の前に、艶歌師がヴァイオリンを弾いていた。みどりもふかきはくようの……ほととぎすの歌だ。随分古めかしい歌をうたっている。
 いっとき立ちどまってきく。年増《としま》のいちょうがえしの女がそばに立っていた。昔、佐世保にいた頃、私はこの歌をきいた事がある。誘われるようななつかしさを感じる。
 艶歌師がうたってくれるようないい小説が書きたい。だけど、小説は長ったらしくてめんどうくさい。ルパシカを着て、紐を前で長く結んでいる艶歌師の四角い顔が、文章|倶楽部《クラブ》の写真で見た
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