しそうに涙ぐんでいる。

「もうこれ位でいいだろう、俺達も仕事しなくちゃいけないから。」
 十時頃だった、星が澄んで光っている。十三屋の櫛屋のところで自動車を止めてもらうと、時ちゃんと私は、小さい財布を出して自動車代を出した。
「街中乗っけてもらったんだから、いくらかあげなきゃあ悪いわ。」
 吉さんは、私達の前に汚れた手を出すと、
「馬鹿! 今日のは俺のセンベツだよ。」と云った。
 吉さんの笑い声があまり大きかったので、櫛屋の人達もビックリしてこっちを見ている。
「じゃ何か食べましょう、私の心がすまないから。」
 私は二人を連れると、広小路のお汁粉屋にはいった。吉さんは甘いもの好きだから、ホラお汁粉一杯上ったよ! ホラも一ツ一杯上ったよ! お爺さんのトンキョウな有名な呼び声にも今の淋しい私には笑えなかった。「吉さん! 元気でいてね。」時ちゃんは吉さんの鳥打帽子の内側をかぎながら、子供っぽく目をうるませていた。――歩いて私達が本郷の酒屋の二階へ帰って行った時はもう十二時近かった。夜更けの冷たい鋪道の上を、支那蕎麦屋の燈火が通っているきりで、二人共沈黙って白い肩掛を胸にあわせた。

 酒屋の二階に上って行くと、たいさんはいなくて、見知らない紺がすりの青年が、火の気のない火鉢にしょんぼり手をかざしていた。何をする人なのかしら……私は妙に白々としたおもいだった。寒い晩である。歯がふるえて仕方がない。
「たい子さんと云うひとが帰らなければ私達は寝られないの?」
 時ちゃんは、私の肩にもたれて、心細げに聞いている。
「寝たっていいのよ、当分ここにいられるんだもの、蒲団を出してあげましょうか。」
 押入れをあけると、プンと淋しい女の一人ぐらしの匂いをかいだ。たい子さんだって淋しいのだ。大きなアクビにごまかして、袖で眼をふきながら、蒲団を敷いて時ちゃんをねせつけてやる。
「貴女は林さんでしょう……」
 その青年はキラリと眼鏡を光らせて私を見た。
「僕、山本です。」
「ああそうですか、たいさんに始終聞いていました。」
 なあんだ、私がしびれの切れた足を急に投げだすと、寒いですねと云う話から、二人の気持ちはほぐれて来た。色々話をしていると、段々この青年のいい所がめについて来る。私は一生懸命あいつを愛しているんですがと云って、山本さんは涙ぐんでいる。そして、火鉢の灰をじっとかきならしていた。
 たい子さんは幸福者だと思う。私は別れて間もない男の事を考えていた。あんなに私をなぐってばかりいたひとだったけれど、このひとの純情が十分の一でもあったらと思う。時ちゃんはもういびきをかいて眠っていた。「では僕は帰りますから、明日の夕方にでも来るように云って下さいませんか。」もう二時すぎである。青年は下駄を鳴らして帰って行った。たい子さんは、あの人との子供の骨を転々と持って歩いていたけれど、いまはどうしてしまったかしら、部屋の中には折れた鏝が散乱していた。

(十二月×日)
 雨が降っている。夕方時ちゃんと二人で風呂に行った。帰って髪をときつけていると、飯田さんが来る。私は袖のほころびを縫いながら、このごろおぼえた唄をフッとうたいたくなっていた。ああ厭になってしまう。別れてまでノコノコと女のそばへ来るなんて、飯田さんもおかしい人だと思う。たい子さんは沈黙っている。
「こんなに雨が降るのに行くの?」
 たい子さんは侘しそうに、ふところ手をして私達を見ていた。

 二人で浅草へ来た時は夕方だった。激しい雨の降る中を、一軒一軒、時ちゃんの住み込みよさそうな家をさがしてまわった。やがてきまったのはカフエー世界と云う家だった。
「どっかへ引っ越す時は知らしてね、たい子さんによろしく云ってね。」
 時ちゃんはほんとうに可愛い娘だ。野性的で、行儀作法は知らないけれども、いいところのある女なり。
「久し振りで、二人で、別れのお酒もりでもしましょうか……」
「おごってくれる?」
「体を大事にして、にくまれないようにね。」
 浅草の都寿司にはいると、お酒を一本つけてもらって、私達はいい気持ちに横ずわりになった。雨がひどいので、お客も少いし、バラック建てだけれども、落ちついたいい家だった。
「一生懸命勉強してね。」
「当分会えないのね時ちゃんとは……私、もう一本呑みたい。」
 時ちゃんはうれしそうに手を鳴らして女中を呼んだ。やがて、時ちゃんをカフエーに置いて帰ると、たい子さんは一生懸命何か書きものをしていた。九時頃山本さんみえる。
 私は一人で寝床を敷いて、たい子さんより先に寝ついた。

(十二月×日)
 フッと眼を覚ますと、せまい蒲団なので、私はたい子さんと抱きあってねむっていた。二人とも笑いながら背中をむけあう。
「起きなさい。」
「私いくらでも眠りたいのよ……」
 たい子さんは
前へ 次へ
全133ページ中73ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング