白い腕をニュッと出すと、カーテンをめくって、陽の光りを見上げた。――梯子段を上って来る音がしている。たい子さんは無意識に、手を引っこめると、
「寝たふりをしてましょう、うるさいから。」と云った。
私とたいさんは抱きあって寝たふりをしていた。やがて襖《ふすま》があくと、寝ているの? と呼びかけながら山本さんはいって来る。山本さんが私達の枕元になれなれしく坐ったので、私は一寸不快になる。しかたなく目をさました。たい子さんは、
「こんなに朝早くから来てまだ寝てるじゃありませんか。」
「でも勤め人は、朝か夜かでなきゃあ来られないよ。」
私はじっと目をとじていた。どうしたらいいのか、たいさんのやり方も手ぬるいと思った。厭なら厭なのだと、はっきりことわればいいのだ。
今日から街はりょうあんである。昼からたい子さんと二人で銀座の方へ行ってみた。
「私はね、原稿を書いて、生活費位は出来るから、うるさいあそこを引きはらって、郊外に住みたいと思っているのよ……」
たいさんは茶色のマントをふくらませて、電気スタンドの美しいのをショーウインドウに眺めながら、そのスタンドを買うのが唯一の理想のように云った。歩けるだけ歩きましょう。銀座裏の奴寿司で腹が出来ると、黒白の幕を張った街並を足をそろえて二人は歩いていた。朝でも夜でも牢屋《ろうや》はくらい、いつでも鬼メが窓からのぞく。二人は日本橋の上に来ると、子供らしく欄干に手をのせて、飄々《ひょうひょう》と飛んでいる白い鴎《かもめ》を見降ろしていた。
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一種のコウフンは私達には薬かも知れない
二人は幼稚園の子供のように
足並をそろえて街の片隅を歩いていた。
同じような運命を持った女が
同じように眼と眼とみあわせて淋しく笑ったのです。
なにくそ!
笑え! 笑え! 笑え!
たった二人の女が笑ったとて
つれない世間に遠慮は無用だ
私達も街の人達に負けないで
国へのお歳暮《せいぼ》をしましょう。
鯛《たい》はいいな
甘い匂いが嬉しいのです
私の古里は遠い四国の海辺
そこには父もあり母もあり
家も垣根も井戸も樹木も
ねえ、小僧さん!
お江戸日本橋のマークのはいった
大きな広告を張って下さい
嬉しさをもたない父母が
どんなに喜んで遠い近所に吹《ふい》ちょうして歩く事でしょう
――娘があなた、お江戸の日本橋から買って送って呉《く》れましたが、まあ一ツお上りなして
ハイ……。
信州の山深い古里を持つかの女も
茶色のマントをふくらませ
いつもの白い歯で叫んだのです。
――明日は明日の風が吹くから、ありったけの銭で買って送りましょう……。
小僧さんの持っている木箱には
さつまあげ、鮭《さけ》のごまふり、鯛の飴干《あめぼ》し
二人は同じような笑いを感受しあって
日本橋に立ちました。
日本橋! 日本橋!
日本橋はよいところ
白い鴎が飛んでいた。
二人はなぜか淋しく手を握りあって歩いたのです。
ガラスのように固い空気なんて突き破って行こう
二人はどん底の唄をうたいながら
気ぜわしい街ではじけるように笑いあいました。
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私はなつかしい木箱の匂いを胸に抱いて、国へのお歳暮を愉しむ思いだった。
(十二月×日)
「今夜は、庄野さんが遊びに来てよ、ひょっとすると、貴女の詩集位は出してくれるかもわからないわね。新聞をやっているひとの息子ですってよ……」
たいさんがそんなことを云った。たいさんと二人で夕飯を食べ終ると、二人は隣の部屋の、軍人上りの株屋さんだと云う、子持ちの夫婦者のところへまねかれて遊びに行く。「貴女達は呑気ですね。」たいさんも私もニヤニヤ笑っている。お茶をよばれながら、三十分も話をしていると庄野さんがやって来た。インバネスを着て、ぞろりとした恰好だ。この人は酔っぱらっているんじゃないかと思う程クニャクニャした躯《からだ》つきをしていた。でも人の良さそうな坊ちゃんである。こんな人に詩集を出して貰ったって仕様がない。私は菓子を買って来た。炬燵《こたつ》にあたって三人で雑談をする。やがて、飯田さんと山本さん二人ではいって来る、ただならない空気だ。
飯田さんがたい子さんにおこっている。飯田さんは、たい子さんの額にインキ壺を投げつけた。唾が飛ぶ。私は男への反感がむらむらと燃えた。「何をするんですッ。又、たい子さんもどうしたのッ、これは……」たいさんは、流れる涙をせぐりあげながら話した。「飯田にいじめられていると、山本のいいところが浮んで来るの、山本のところへ行くと、山本がものたりなくなるのよ。」「どっちをお前は本当に愛しているのだ?」私は二人の男がにくらしかった。
「何だ貴方達だって、いいかげんな事をしてるじゃないのッ!」
「なにッ!」
飯田さんは私を睨む。
「私
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